法制史は法を歴史的に探究する学問であり,法史学ともいう。日本では西洋法制史,日本法制史,東洋(中国)法制史などの分科がある。なお,法の歴史そのものを法制史ということもあるが,この意味では,日本については〈古代法〉〈中世法〉〈近世法〉の各項を参照。これをうけて本項後段では近代日本の法制を概説した。
西洋法制史は,中世以降の西洋法制の発展を取り扱う狭義の〈西洋法制史〉と,古代におけるローマ法ないし広く西洋古代諸法を対象とする〈ローマ法〉とに分かれている。西洋法制史の研究意義や方法をめぐっては議論のあるところであるが,その前に,日本の法史学に決定的な影響を与えてきたドイツ法史学にさかのぼって研究史を概観しておく必要があろう。
ドイツにおいて法史の厳密に学問的な研究が始まったのは18世紀の終りからであり,とりわけ19世紀初めの歴史法学派の樹立にともなってである。この学派の確立者サビニーによれば,法は言語と同じく民族精神の発露であり,民族とともに生成・発展するものであって,抽象的な思弁によって人為的につくり出されるべきものではない。法の素材は国民の全過去によって与えられ,国民自身の最奥の本質とその歴史とから生まれたものである。法学の課題は,あらゆる法素材をその根源までさかのぼり,その有機的な原理(民族精神の中に初めから備わっていた法理念)を発見することにあり,それによって,現在なお生命を有しているものとそうでないものとが区別されることになる。こうした主張に基づいて,法の歴史的研究に重要な役割が与えられた(〈歴史法学〉)ものの,歴史認識それ自体が目的ではなく,19世紀ドイツ社会に適合的な私法の体系を構築するための手段であった。現行私法(普通法)の解釈学(ドグマーティク)と直結し,これに奉仕すべきものであった。
歴史法学派はローマ法学者(ロマニステン)とゲルマン法学者(ゲルマニステン)の2派からなる。ロマニステンは歴史法学の本来の担い手であり,法実証主義的な〈パンデクテン法学〉と近代的概念および体系を用いたドグマーティッシュなローマ法研究をもたらしたが,パンデクテン法学がほぼ完成に達した1880年代以降,ローマ法研究は法解釈学への奉仕から解放され始める。インテルポラティオinterpolatio(《ローマ法大全》への集録に際して原文に加えられた修正・変更)の研究,ローマ法以外のエジプト法,ギリシア法,バビロニア法等に及ぶ古代法史学の構想はローマ法文化の価値を相対化し,ローマ法(古代法)研究は歴史学として純化される。それでも法学教育では引き続き長い間,現行法に対する入門(実定法の制度や規定の系譜史)として位置づけられた。
ゲルマニステンは初期にはいわばロマニステンとの分業の形で,法の歴史をさかのぼることによってドイツ的法制度の本質(原理)を明らかにしようと努めていたが,1830年代に至って両者間の対立が尖鋭化する。ベーゼラーは,ローマ法の継受を法曹法と民衆法の分裂をもたらした〈国民的不幸〉と呼び,民衆法の復権,両者の融和を要求した(サビニーは,ローマ法は民族の代表者たる法律家の手によってドイツに導入されたものと強弁していた)。三月革命(1848)前の政治的自由主義と結びついた主張である。ドイツ法(ゲルマン法)が現行普通法の一要素と規定されたことと関連して,19世紀中葉以降,パンデクテン法学の方法を用いたドイツ私法の概念的体系化が追求されることになった。ゲルマニステンはまた,官僚制による近代化(ロマニステン)に対抗する自由主義の立場から〈ゲルマン的自由〉,ゲルマン的な〈ゲノッセンシャフト〉の原理を強調し,これを基礎づけるためのドイツ法制史ないし国制史の研究を展開した。
これに対し,1860年代後半以降プロイセンを中心とするドイツ統一が実現されていったことを前提として,立憲君主制に照応する体系的なドイツ国法学(ゲルバー,ラーバントら。パンデクテン法学の方法を移植した実証主義的国法学)が成立するとともに,そこにおける国家と社会,公法と私法の区別,主権,臣民団体,完結的な国家領域といった概念範疇を用いて,前近代社会にも君主制原理に基づく〈国家〉が存在していたことを論証しようとする--きわめて法律学的juristischな--国制史研究(中世国家論)が台頭した。その学問体系は,ヘルシャフトの原理の一面的な強調を批判し,ドイツ国制史をヘルシャフトとゲノッセンシャフトの両原理の調和に至る過程としてとらえるギールケなどの学説を圧倒し,19世紀後半から20世紀初頭にかけて学界の主流を形成した(H.ブルンナーを頂点とする〈古典学説〉)。
ドイツ民法典の施行(1900)とともに法解釈学は歴史的研究から完全に独立するに至り,第1次大戦のころになると法史学無用論が唱えられるに至った(とくに〈ローマ法の危機〉)。ナチス政権下では,ローマ法の研究・教育が禁圧され,ゲルマン法学が奨励されるとともに,現行法がゲルマン的ドイツ的民族の伝統的確信よりわき出ていることの証明が要求された。近世ドイツの法発展は,ローマ法とゲルマン法の両要素の総合的発展として理解されるべきものであり,そのため大学に近世国制史と近世私法史という講義科目が新設された(民族精神論に基づく法純化主義の影響で中世末以降から近世・近代の法史研究は未開拓であった)。戦後のカリキュラム改革後も,近世私法史の講義は廃止されず,研究の面でも著しい発達をとげることになった。そこでは,ヨーロッパの危機と連帯の意識を反映して,ローマ法(法学)を中心とするヨーロッパ法文化の歴史的伝統と連続性が強調され,近世私法史はヨーロッパ法史として再生したのである。大学とそこで法学教育を受けた法律家階層,彼らに特徴的な時代の思惟様式等が問題にされており,19世紀以来のドグマーティッシュな研究方法の排除(社会学的方法の導入),ロマニスト・ゲルマニスト間の障壁の除去がみてとれる。
ところで,中世ドイツ法制史(国制史)に関する古典学説は,1930年代からドイツの中世史学界に起こってきた新しい研究動向のなかで厳しい批判にさらされた。その体系的な中世的国家論を支えていた近代的諸概念(19世紀ドイツの国法学的諸概念)の中世史研究への無反省な適用がしりぞけられ,中世的な国制を対象に即して正しく把握すべきことが提唱された(ギールケらも,一種の自由主義的国法・国家概念に基づいていたかぎりで,批判を免れなかった)。こうした動向とも関連して,戦後まもなく,伝統的な法史学に対する徹底的な反省が加えられ,その生存価値が正面から問われることになった(ミッタイス)。日本でも戦後,それまでのドイツ的法史学に対する批判が提起された(その際,マルクス主義や法社会学の影響が強くみられたことはドイツの学界にはない特色といえる)。〈ゲルマン法〉の概念に理論的批判を加え,西洋法制史の研究方法について根本的再検討を要請した世良晃志郎は,法史学が真の意味での歴史学として脱皮すべきことを主張した。
今日,法史学が歴史学の一部門であり,法という視角からみた歴史学にほかならないことを否定する者はいない。その際,研究史からも知られるところであるが,第1に,19世紀の法学に特有な法実証主義的な思考方法を排除して,法以外の諸事実(政治的,社会経済的,精神的等)をも考察の対象に取り入れ,それらとの関連において法の生成・発展を動態的に解明しなくてはならない。第2に,近代の法や国家に関するドグマーティッシュな諸概念を過去の社会に無批判に持ち込むことによってその歴史像を歪曲してはならず,できるかぎり史料そのものからとってきた諸概念に依拠しながら過去の社会に特有な法(国制)のあり方を把握すべきである(これはもちろん,歴史認識における時代に制約された〈観点〉という問題を否定するものではない)。ただ,こうした反省のうえに,歴史学としての西洋法制史のあり方や方法を具体的にどのように考えるかは研究者によってかなり異なる(現在の学界では,マルクス主義--教条主義的なそれは別として--やウェーバーの歴史理論がなお基礎的意義を有しており,またO.ブルンナーらの国制=社会史ないし構造史といったものの影響も顕著に認められる)。その研究対象は,必ずしもドイツに限定されず,フランス,イタリア,イギリスなどに拡張され,またヨーロッパ法文化という取上げ方もなされている。
ところで法史学は同時に,法学の一部門である。法的事実の認識を目的とする経験科学(法事実学)として,法社会学と密接不離の関係にあるのに対し,認識の学である法史学と実践の学である法解釈学とは,〈学問としての性格をまったく異にするものであり,両者を無媒介的に直結するのは誤りである〉(世良晃志郎)ことはいうまでもない。しかしそのことを踏まえたうえで,法史学は法解釈学に対しても一定の寄与をなすことができる。法に関する基礎的認識(理論的資料)と歴史的経験に基づくさまざまな示唆を提供し,実証主義的硬直化からこれを守るのである。
→ゲルマン法 →ローマ法
執筆者:佐々木 有司
過去の時代の法を探究するという広い意味での法制史は,日本ではすでに平安後期から鎌倉初期にさかのぼるといってよい。当時の明法博士(みようぼうはかせ)たちは,4世紀も前に制定された律・令やそのときどきの状況に応じてつくられた格,式,先例を検討して〈法意〉を抽出し,彼らの直面する法的諸問題を解決する指針とした。ただこの場合,彼らにとって律令格式は建前上は現行法であったから,過去のものとして扱われたのではなく,広い意味での法解釈の素材・対象であるとともに,法的判断の規範的枠組みであった。しかし実際には律令格式の条文を--意図的と思えるほどに--曲解した解釈もしばしば行われており,明法博士たちが現実の問題に対して適当な解決方法と考えた結論を権威づけるために過去の法についての知識を操作的に利用していた。室町時代になると,武家支配体制の基本法と考えられた《御成敗式目》をはじめ,鎌倉幕府政下の法令や先例についての知識が,やはり同じような目的と態度で活用された。
江戸時代の国制は,古代の律令体制や中世の武家支配体制と異なったしくみをとったので,こうした法解釈の方法を必要としなかった。しかし中期以降,学問の世界で古辞学が盛んになるにつれて,律令法や古代の諸制度の研究が行われるようになった。これらは現実の法的諸問題の具体的解決に資するものではなく,いわば純粋に知的関心から出たものといえる。しかしこうして得られた知見が,現体制の整備・改良の提言にしばしば応用されており,広い意味での実践的関心が古代法研究の支えとなっていた。
日本において近代的社会科学の一分野としての法制史が始まった契機は,大学の法学部にヨーロッパの例にならって法制史が授業科目に含められたことに求められる。明治10年代の東京大学法学部のカリキュラムには〈日本古代法律〉と〈羅馬(ローマ)法〉がならんでいる。その後帝国大学制度と講座制が整備されるに及んで,帝国大学法科大学(東京大学法学部の改称)に〈法制史〉(のちに〈日本法制史〉と改称)と〈羅馬法〉の両講座が設けられ,さらに〈比較法制史〉(のちに〈西洋法制史〉と改称)や〈東洋法制史〉がこれらにつけ加わった。〈日本古代法律〉を担当していた小中村清矩は国学者で,江戸時代の古代法研究の流れをくむ学風であった。しかし法学一般がヨーロッパ,とくにドイツの法学を模範にするという当時の風潮はやがて法制史に及び,ローマ法はもとより,日本法制史の研究者もドイツへ留学し,そこで身につけたドイツ法制史の方法をとり入れるに至った。〈法制史〉講座初代担当者宮崎道三郎はグリム兄弟のひとりヤーコプ・グリムの影響を受け,みずからは古代法を言語学ないし語源学的角度から探究することに没頭するとともに,ドイツ法制史の研究が日本法制史研究の参考のために必要だとして〈比較法制史〉講座設置を希望し,実現させたのである。宮崎門下の中田薫もドイツへ留学し,はじめ〈比較法制史〉講座を,宮崎の停年退官後は〈日本法制史〉講座を担当したが,日本法制史の研究にあたってほとんど終始ドイツ法制史との比較という方法をとりつづけた。
他方,京都帝国大学ではじめて法制史を講じた三浦周行は,帝国大学で学んだものの実質的には水戸学の流れをくむ学者で,ヨーロッパの歴史にはほとんど関心を示していないが,その後継者牧健二はドイツ封建制との比較で日本の武家支配体制を探究する方法を採用している。
ただ,同じく比較史的方法を採っても,ヨーロッパと日本との間にみられる類似性に重点をおくか,相違性に重点をおくかは,学者の個性や学統によるのであって,小中村と人的つながりのなかった宮崎とその学統は前者,水戸学流の三浦とその学統は後者に属する。とくに中田は,ローマ法と異なる独自のドイツ法(ゲルマン法)を称揚したドイツの法制史家の影響をうけ,日本をゲルマン型としてとらえ,日本の封建制をその角度から分析した。のちに日本の史学界にマルクス主義歴史学の影響が及んだ際,中田の封建制研究は,ヨーロッパ中世をモデルにしている点でこれと共通していたので,日本封建制研究の古典的業績と評され,強い影響力をもつことになった。しかし近年はマルクス主義的歴史家の間でも日本(少なくともアジア)の歴史的発展の独自性に関心が向けられるようになり,牧の業績が再評価されてきている。
しかし中田にせよ牧にせよ,いわば本家筋にあたるドイツの法制史家との間に決定的な差異があることに留意する必要がある。ドイツの法制史家にとってドイツ法(ゲルマン法)は当時(19世紀)の現行法制度や法解釈学にとり入れられるべきものであり,彼らの用いた方法や概念はこうした実践的関心に強くひきよせられて,純粋な歴史分析にそぐわないものが多かった。これに対して日本の法制史家にとって,過去は過去であり,過去を現在に生かすという実践的関心はあまりない。それにもかかわらず,否,それゆえにドイツの方法や概念を吟味することなく,そのまま自分のものとして用いたので,結果的に19世紀ドイツ的刻印を免れていない。社会構造との関連で,それぞれの時代や地域の固有の法のあり方を探る学問としての法制史は,このような学説史的吟味を積み重ねながら,新しい道を歩み出そうとしている。
執筆者:石井 紫郎
中国法制史を東洋法制史ともいう。中国史を東洋史という場合と同じである。大学の法学部で恒常的に講義が持たれたのは第2次大戦後である。しかし日本は中国法を母法とした長い歴史があり,同時代法としての中国法とその歴史の研究には深い累積がある。古代の律令継受に伴う理論的高さは《令義解》や《令集解》における法解釈が遺憾なく示すところであり,江戸時代における荻生徂徠《明律国字解》,伊藤東涯《制度通》などをはじめとする多くの高水準の研究は,現実政策の必要が生みだしたものである。明治以後は大陸政策に伴い,狩野直喜(かのなおき)などの協力のもとに織田万(よろず)編《清国行政法》など学術的に貴重な研究を生み出し,第2次大戦後は仁井田陞(のぼる),内藤乾吉などの碩学により新たな基礎が開かれたが,これも中国革命が世界に落とした巨大な影に対応するという要請が背後にある。むろん学術的に法そのものの理解に役だてる目的があるのは言をまたない。
→中国法
執筆者:奥村 郁三
近代以前の日本の法制については〈古代法〉〈中世法〉〈近世法〉の項目にゆずり,ここでは近代以降について述べる。日本近代法史は,明治維新を起点として形成され,第2次大戦後の制度改革によって全面的に再編成された,日本の近代的法体系を中心とする法現象(法体制)の歴史である。この間,敗戦までの約80年の期間を5期に時代区分し,各期の特徴を概説したうえ,戦後改革による変容に論及する。
(1)第1期は近代的法体系の萌芽的形成期であり,1868年(明治1)の江戸幕府の廃止,明治政府の成立から85年の内閣制度の成立に至る。この間,幕藩体制の解体と新しい統治機構の構築とが不可分の関係で進められた。また,資本主義の育成手段としての法が,先進国とくにフランスの諸法典の強い影響の下に制定された。まず新しい社会をつくるうえに障害となる旧制度としての幕藩体制は,封建的支配機構の解体,不徹底ながら実施された封建的身分制度の解体,結婚・離婚など身分行為の自由の承認,経済的拘束の撤廃などによって解体された。廃藩置県(1871),士族の秩禄処分(1870以降),華士族平民間の通婚の自由(1871),関所廃止(1869),田畑永代売買の承認(1872)などがその例である。旧体制に代わる新しい中央集権的な統治機構は,1871年の太政官制の整備をはじめ,同年の府県官制,県治条例,72年の大区・小区制,78年の郡区町村編制法による地方制度の整備,1872年以降の裁判所の設置などによって構築された。新しい統治機構を守る軍事・警察機構は,1872年の陸海軍両省の設置と73年の徴兵令の制定,73年の内務省警保寮設置,74年の警視庁設置によって整備された。治安維持の重要な手段である刑事法は,すでに1870年に新律綱領,73年に改定律例が制定され,さらに1880年には,フランス人のボアソナードによって起草された最初の近代法典である刑法および治罪法(刑事訴訟法)が制定され,82年から施行された。資本主義発展の基礎をつくるための法として重要なものは,人民を把握するための戸籍法(1871公布。戸籍),近代的土地制度を確立するための地券制度(1872)と地租改正条例(1873公布),近代的教育制度を確立するための学制(1872公布)・教育令(1879,1880公布),商工業を発展させるための国立銀行条例(1872公布)・日本銀行条例・為替手形約束手形条例(ともに1882公布)などであった。
(2)第2期は,国際的・国内的に法体制を確立することを目標とした法典編纂と条約改正の時期であり,1885年末の太政官制の廃止,内閣制度の発足から99年の改正条約の発効,法典の全面施行に至る。この時期の特徴は,自由民権運動の鎮圧後,国内的には一応天皇を中心とする統治機構が確立したものの,なお不平等条約の改正と法典編纂の完成とによる法体系完成への模索が行われた点にある。統治機構は,1889年の大日本帝国憲法とその付属法令の制定によって確立した。主としてプロイセン憲法を参照した大日本帝国憲法は,帝国議会を開設したものの,天皇による統治権の総攬と,国民の基本的人権の制約とを特徴とする。これは,自由民権運動が国家構想として提示した私擬憲法草案(例えば1881年の交詢社の私擬憲法案や植木枝盛の〈日本国々憲按〉など)が,天皇の権限を制約し,国民の基本的人権を手厚く保障したのと基本的に性格を異にした。またこの時期から,民法,商法,民事訴訟法,刑事訴訟法などの法典編纂や司法制度を整備確立する裁判所構成法の編纂が,大日本帝国憲法を頂点とする法体系を完成するために本格的に推進され,いずれも90年,国会開設を前に公布された。しかし民法(〈旧民法〉の項参照)と商法は,法典論争によって施行延期となったが,93年に設置された法典調査会によって再編纂され,民法は98年に,商法は99年に施行された。かくして実現した全面的な法典編纂と近代的な司法制度を前提として,陸奥宗光による条約改正が進められ,日清戦争直前の1894年7月,治外法権を撤廃し関税自主権をも一部回復した日英通商航海条約が締結された(1899発効)。その反面,大日本大朝鮮両国盟約(1894締結。のち1910年に日韓併合条約),日清通商航海条約(1896締結)により,日本は中国と朝鮮に不平等を強いた。
(3)第3期は近代的法体制の確立期であり,1899年の法典の全面実施と改正条約の発効に始まり,1918年の米騒動に至る。この時期において,明治維新以降の国際的・国内的法現象が総括され,憲法を頂点とする諸法典とこれらを取り巻く膨大な特別法によって構成された近代的な法体系が,一応社会関係の全体を規律する建前となった。諸法典は,外国法とくにフランス法とドイツ法の影響を強く受けて継受法的性格をもったが,政策目的や経済的・社会的諸条件を考慮して母法(フランス法やドイツ法)の取捨選択と修正を行い,さらに現実の社会条件を考慮した独自の法的構成をも採用している。とはいえ,法体系と現実の社会関係との間にずれが存在し,国民が法に対して疎外感を抱く原因となった。特別法については,とくに輸出入,金融,産業育成などに関する産業法が,経済過程に対する国家の介入手段として,資本主義の発展に大きな役割を果たした。なお日清戦争と日露戦争の結果,植民地領有国となった日本は,1896年の〈台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律〉および1910年の〈朝鮮ニ施行スヘキ法令ニ関スル件〉により,植民地法制を展開した(植民地法)。統治機構については,山県有朋内閣は,1899年の文官任用令の改正,文官分限令,文官懲戒令の制定,軍部大臣現役武官制の実現により,政党を官僚制から遠ざけ,その独立性を強化した(官吏)。また統治機構を社会関係・階級関係に結びつける機構の法的保障として,1899年の農会法,1900年の産業組合法,1902年の商業会議所法などがある。これと対応して,一方では1900年の治安警察法,行政執行法など治安立法が,他方では1911年の工場法(1916施行)などの社会政策立法が展開された。
(4)第4期は,確立した法体制が動揺と再編成を迫られた時期であり,最初の本格的な政党内閣としての原敬内閣の成立をみた1918年から31年の満州事変の発生に至る。第1次大戦による資本主義の急激な発展は,一方では国家権力内部における資本家の比重を増大させたが,他方では労資間,地主小作間の対立を激化させ,労働者,農民運動の急速な成長を促した。これらによって動揺した法体制の再編成は,原敬内閣以後の政党内閣によって行われた。統治機構については,衆議院議員選挙法の1919年改正(納税資格を直接国税10円から3円に引き下げた),1925年改正(男子の普通選挙権の実現)が地主・ブルジョア政党の力を増大させ,政党内閣の基盤を強化した。高級文官の自由任用,詮衡任用を拡大した1920年の文官任用令の改正や23年の陪審法(陪審)の制定(施行は1928)なども統治機構のブルジョア的再編成を目ざすものであった。なお1919年に設置された臨時法制審議会が,法体制の再編成に重要な役割を果たした。さらに借地借家調停法(1922公布),小作調停法(1924公布),労働争議調停法(1926公布)などの調停法が,国家の後見的介入によって,社会関係の動揺に伴う紛争の解決を図った。他方,治安立法と社会政策立法は,25年の治安維持法や29年の救護法(施行は1932)などによって強化された。ところで産業法が,この時期に著しい発展を遂げた。重化学工業の助成立法,第1次大戦後の継起的な経済恐慌に対する救済立法,経済的独占の促進立法などがその例である。そして1918年の軍需工業動員法が,発展する民間企業を軍事目的に動員する道を開いた。
(5)第5期は,法体系が政治に直接に従属することによりその独自性を失った時期であり,1932年の〈満州国〉の成立や五・一五事件から45年の第2次大戦の敗戦に至る。この時期を特徴づけるものは戦時体制であり,法は戦争目的遂行の手段とされた(戦時法)。1938年の国家総動員法(国家総動員)が,行政権に対する広範な授権法として,この時期の法の中心となった。これに基づき,人的資源・物的資源を動員,運用する膨大な勅令が生み出された(統制経済)。また統治機構は,戦時体制を支えるために極度に集権化された。一方では企画院(1937),厚生省(1938),内閣情報局(1940),大東亜省(1942),軍需省(1943)などの強大な権限をもった新しい中央機関がつくられたばかりでなく,43年の戦時行政特別法,戦時行政職権特例によって首相が強大な権力を掌握した。他方では1940年に全政党が解散させられ,大政翼賛会に再編された。42年には,大政翼賛会の末端組織が,町内会・部落会,さらに隣組の組織と結びつくものとされ,国民すべてが戦時体制に組み込まれた。治安立法は,思想犯保護観察法・不穏文書臨時取締(ともに1936公布),国防保安法・改正治安維持法の制定および刑法の改正(いずれも1941公布)により強化され,42年には裁判所構成法戦時特例,戦時民事特別法,戦時刑事特別法の制定により,戦時司法体制が確立した。戦時体制の下で,国民の基本的人権は極度の圧迫を受けた。
(6)日本近代法史は,敗戦によってその幕を閉じた。1945年8月14日のポツダム宣言の受諾から,52年4月28日の対日講和条約,日米安全保障条約の発効に至る時期は,近代法体制から現代法体制へと移行する過渡期である。この時期は,連合国による占領と,対日占領政策により戦前の法体制を変革するいわゆる戦後改革とによって特色づけられる。占領は,日本の主権を連合国最高司令官の下においたが,占領形態は軍政ではなく間接統治方式をとった。戦後改革は,日本軍国主義の駆逐,戦争犯罪人の処罰と民主主義的傾向の復活強化,再軍備禁止などを主たる内容とするポツダム宣言を基本とし,1945年10月の五大改革の指令(婦人の解放と参政権,労働組合の結成奨励,学校教育の自由主義化,専制政治の廃止,独占禁止と経済機構の民主化)などによって進められ,47年5月3日施行の日本国憲法とそれに基づく諸法令に集大成された。戦後改革は,立法,司法,行政の諸制度の改革をはじめ,財閥解体,農地改革,労働改革,教育改革,家族制度改革など,国家と社会の全面にわたる巨大なものであった。この改革は,戦前の法体制を大きく変えるとともに,従来,フランス法,ドイツ法の影響が大きかった日本の法体系に対し,新たにアメリカ法の強い影響をつけ加えた。しかし戦後改革の中には,農地改革,家族制度改革,司法改革のように,第4期以降の法体制の動揺と再編成にその萌芽を有し,占領政策によって,よりいっそうの飛躍をとげたものと,財閥解体のように戦前にその萌芽をもたないものがある。したがって,戦前の法体制と戦後改革との関係は,継承と断絶との両面において把握することが必要である。
かくしてこの時期の法体系は,占領法規と日本国憲法を頂点とする法体系との二重構造においてとらえられる。この両者の関係は,はじめはほぼ等質であったが,しだいに矛盾をはらむようになる。その原因は,1947年ころから顕在化した米ソの冷戦の激化,49年の中華人民共和国の成立,50年の朝鮮戦争の勃発に象徴される極東情勢の変化にあった。それはアメリカの極東戦略と対日占領政策を,日本をアメリカの前進基地とする方向に転換させた。戦後改革は,それに適合するものはさらに促進されたが,それに反するものは抑圧された。前者には農地改革や家族制度改革が,後者には労働改革や財閥解体,国家諸制度の改革が属する。このことは,占領法規と日本国憲法を頂点とする法体系との矛盾対抗関係を生み出した。この矛盾は,占領中は占領法規の超憲法的効力によって解決され,日本国憲法による民主主義的原理と基本的人権の保障は,占領を阻害しない範囲内で有効とされた。しかしそれは,対日講和条約の発効後,占領法規を承継した日米安全保障条約およびこれに連なる諸法令と,日本国憲法を頂点とする法体系との矛盾として引き継がれた。過渡期を経過した現代日本の法体制は,このような矛盾をはらみつつ,複雑な展開をとげて現在に至る。
執筆者:利谷 信義
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
法制史とは、法制の歴史ないし法現象の歴史的展開をさしているばかりでなく、いわゆる基礎法学の一つとして法現象の歴史的研究を行う法制史学ないし法史学をも意味する。法制史学は、人類が法というものを認識するようになってから今日まで、その取り扱う範囲は非常に広く、単に過去の法制度ないし法現象の研究にとどまらず、今日の法制度のあり方や、将来のあるべき法を明らかにすることにも寄与すべきものと考えられる。今日の法制史学の現状は、その取り扱う対象によって、日本法制史、中国法制史ないし東洋法制史、ローマ法、西洋法制史ないしイギリス、フランス、ドイツなどの各国法制史というように分かれている。他方、法系論も根強く、大陸法系、英米法系、中国法系、イスラム法系など、法規範の系統を軸にして法を分類する方法もまだ多くみられる。けれども、法制史も法哲学や法思想史と同様、法の本質、法とは何かを明らかにするのに寄与しなければならないから、法制史にとっては法が具体的にどのように形成されたのかを明らかにすることがその出発点となる。残された法史料をみると「社会あるところ法あり」というようなものではなく、法の形成が国家の発生と密接なかかわりをもっていることがわかる。また、各時代、各民族の国家の支配者が、多くの守るべき規律(社会規範)から何を法として抽出したのか、あるいは法律を制定してどのように国家構成員に強制したのかを明らかにすることが法制史の重要な課題となる。したがって、このように法と国家との関係を分析するには、単に法史料のみでなく、広く政治、経済、社会、文化などの諸現象をも考慮に入れなければならないばかりでなく、法を明らかにするのに、他の国家や他の民族の法との比較研究(比較法史学)も重要な手法となる。
法制史が法現象の歴史研究を目ざす限り、歴史学とはとくに深いかかわりをもっている。そのため、場合によっては法制史学が一般の歴史学とほとんど区別がつかなくなることもありうる。法制史学は、広い意味の歴史学に入るものとしても、法現象の歴史的研究であるから、当然今日の法現象や法制度を念頭に置かざるをえず、その意味で法社会学や比較法学とも密接なかかわりをもっている。従来の個々の法制度や国家制度の歴史的研究ばかりでなく、法の一般理論の研究や法学史の研究も行われるようになった。
[佐藤篤士]
西洋法制史は、今日のほとんどの法分野にわたって世界の法制度の基本原則を生み出した点で、きわめて重要な意義をもっている。日本では、明治初期にヨーロッパの先進的な国フランスやイギリスの法を学び、ボアソナードをはじめお雇い外国人を招聘(しょうへい)して近代的法典の編纂(へんさん)が試みられた。ドイツ帝国憲法を範とした強力な立憲君主制の欽定(きんてい)憲法が制定されると、穂積八束(ほづみやつか)の「民法出テ忠孝亡ブ」という論文(1891)を契機に行われた法典論争を経て、ドイツのパンデクテンPandekten(学説彙纂(いさん))方式による民法典が公布・施行され、ドイツ法の考え方が法学説のなかに大きな比重を占めるようになった。第二次世界大戦後はアメリカ法の影響も受けている。このような意味で、ヨーロッパ法史の研究は、人類の法文化の歴史を認識するためばかりでなく、ヨーロッパやアメリカの法を受容した日本の近代法や現代法を理解するうえでも不可欠であるといえよう。
わが国で西洋法制史という場合、広狭二つの意味で用いられている。広い意味では、ギリシア・ローマの古典古代社会の法、ゲルマン社会の法、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどのヨーロッパ中世以降今日までの法というように、世俗法と教会法さらに法思想を含むヨーロッパの法の歴史全体をさし、またヨーロッパ古代の法を明らかにする意味でシュメール、バビロニア、アッシリア、ヘブライ、エジプトの古代東方法も含まれる。狭い意味では、ローマ法に対比して用いられ、ゲルマン古代の法と中世以降のヨーロッパ法の歴史をさす。明治初期に、ヨーロッパの大学に倣ってローマ法と比較法制史(のちに西洋法制史となる)という講座で出発して以来、日本ではこの狭義の、しかもドイツ、フランス、イギリスを中心とした西洋法制史が定着し、歴史法学派以来のヨーロッパの伝統的法学を摂取し、パンデクテン方式の民法典が公布・施行されてよりのちは、西洋法制史もドイツの法制史学の圧倒的影響を受けることになった。すでにドイツでも19世紀後半よりモムゼンTh.Mommsen(1817―1903)を嚆矢(こうし)として実証的法史学が盛んとなり、多くの法史料の見直しが行われるようになった。また、ローマ法を基礎として法のあり方を考えていこうとする人々(ロマニステン)と、ゲルマン法を基礎として法のあり方を考えていこうとする人々(ゲルマニステン)との対立も激しく、ローマ法かゲルマン法かという論争がわが国にも大きな波紋を投げかけた。
第二次世界大戦中のドイツにおいては、ナチスがローマ法(パンデクテン法学)の排撃を行い、新たに大学に独立の科目として近世私法史を設置した。これは、ナチスが民族主義を強調してゲルマン法的思考を採用しようとしたものにほかならない。けれども実際の研究は、そのような政治的意図とは異なり、法現象を追求すればするほど、ローマ・カノン法ないしローマ法学がいかにヨーロッパ全体の共通の法文化の基礎となっていたか、また近代法形成にあずかって力があったかを知らしめることになった。このことは、戦後に発表された諸業績や中世ローマ法叢書(そうしょ)にみられるように汎(はん)ヨーロッパ的研究活動によく現れている。これらの研究を通じて、近代法に先だつ近世法の意味の検討、従来のローマ法の継受ないしローマ法の現代的慣用の視点を発展させて、EC(ヨーロッパ共同体)における法の統一という課題と結び付けながら、ヨーロッパ法文化がローマ法以来統一的に連続して継承されたという主張も強力になってきている。また、日本で従来ほとんど研究の行われていなかった中世ビザンティン帝国の法史、東ヨーロッパの法史にも関心が払われるようになった。
他方、ヨーロッパ中世の国制史研究も進められており、近代法との関連で具体的、実証的歴史分析を目ざしている。論点は多岐にわたるが、その主要なものは中世初期の法と国家のあり方をめぐっての論争、中世都市法の性格をめぐる問題、古きよき法たる中世の法の性格をめぐる問題、近代法の形成過程などをあげることができる。さらに、最近は法を実際に生み出してきた法学の歴史にも強い関心が払われている。このような法現象の分析は、一つには法が各歴史社会においていかなる具体的現象形態をとっていたかを明らかにすることであり、同時に、法とは何かを理論的に明らかにするのに寄与することにもなる。
最近、ローマ法や法制史を大学のカリキュラムで法律学から歴史学の一部門として位置づけようとする動き(フランス、ドイツなどの西欧諸国の大学の場合)もあるが、東欧諸国においては、ローマ法や法制史は法学部の必修科目であり、基礎法学が重視されている。法現象が社会の発展とともに大きな変容を遂げつつある今日では、法と国家、法の本質などについての理論的研究の基礎として、広義の西洋法制史研究の果たす役割も大きい。
[佐藤篤士]
中国の法史を通じて国家制定法の発達が顕著である。春秋時代(前771~前403)までは誓・盟が法の機能をも果たすものであったが、すでに紀元前6世紀には「刑書」がつくられたと伝えられ、戦国時代(前403~前221)の初めころには、後世の法典の祖というべき「法経(ほうけい)」6篇(へん)が存在したと推測されている。秦(しん)の国家統一を経て漢代(前202~後220)に入ると、「九章律(きゅうしょうりつ)」が法体系の中心をなし、律の副次法典たる令が数多くつくられた。漢代が法の創成発展期であるのに対して、続く魏晋(ぎしん)南北朝(220~589)は法典編纂(へんさん)期であり、晋の「泰始(たいし)律令」(267)において、律令が二つの基本法典(刑罰法・行政法)として並び定まった。北朝ではしばしば律令の改纂が行われ、隋(ずい)(581~618)、唐(618~907)に至っては律令格式時代を現出した。とくに唐律は、戦国時代以来の国家制定法発達の集大成たる意義をもち、中国法史上最高の法典であるだけでなく、当時世界に類をみない刑法の精華であって、後代これを承(う)け、隣邦にも大きく影響した。
五代を経て、宋(そう)代(960~1279)には勅令格式なる法体系が現れたが、唐律は宋末まで現行法であった。遼(りょう)の法は固有法と唐律との二元制をとり、金(きん)では唐律を大幅に模した律がつくられ、他方、元(げん)一代は律が制定されなかったという変遷はあるが、明(みん)代(1368~1644)に入ると、大筋として唐律を継いだ明律が制定され、続く清(しん)代(1616~1912)においても、清律はほぼ明律を踏襲するものであった。令と名づけられる法典は明代をもって終わった。明、清では副次法典たる条例が数多く制定され、時勢に応ずる法の役割を大きく担った。清代末期、時局の要請から近代的法典の制定が企てられたが、実施に至らず、中華民国(1912~)に入り、大陸法系の法典が逐次成立した。中華人民共和国(1949~)では、法典化をめぐる曲折を経たのちに、中国独自の特色を備えた社会主義法典がしだいに数を増しつつある。
戦国時代以来清末に至る帝政時代を通して、伝統中国法は、基本的には旧制を継ぎながら独自完結的な律令法系を形づくった。成文法は刑罰法規と行政法規とからなり、わけても、前者において古くから優れた発達を遂げた。これはローマ私法の発達とも比肩するが、同時に西洋法系に対蹠(たいしょ)的な特徴をなしている。他方、実定私法体系はついに生み出されなかった。法はすべて皇帝の意思に発し、官僚の執務の準則であって、人民が法を援用して権利を主張できるというものではなかった。また、漢代以降儒教が国家統治の指導理念とされるに伴い、儒家の唱える礼の規範が法のなかに取り入れられ、このような儒法融合の趨勢(すうせい)が国家法のあり方を規定した。以上の中国法の特色のとらえ方をめぐっては、基本法典たる律の連続性に着目して、国家法は実効性に乏しかったとする説が、従来比較的に多数を占めたが、これに対しては、時勢の変動に即応した副次法典や、多量の判例集の存在を重視して、法の実効性を明らかにする研究が、近時内外に現れつつある。
中国法が日本、朝鮮、ベトナムなど周辺諸国に与えた影響はきわめて大きい。わが国の大化改新以後、「近江令(おうみりょう)」から「養老(ようろう)律令」に至る一連の法典は、唐の律令を範としたものであり、とくに律はほぼ唐律を継受している。下って江戸時代の藩法の一部や、さらに明治初期の「新律綱領」「改定律例」には、明・清律の影響の著しいものがある。
[中村茂夫]
日本法制史の時代区分については各種の試みがなされている。中田薫(かおる)は明治時代以前を大化前代・大化後代・中世・近世に区分し、滝川政次郎(まさじろう)は固有法と継受法との関係に重点を置いて区別し、牧健二は政体によって区別している。筆者は、一つの時代は、前期すなわちその時代の基本的特徴の発達期と、中期すなわちその基本的特徴の全盛期と、後期すなわち基本的特徴の衰退期の三期に分けることができると考え、この考えのもとに、上代・上世・中世・近世・近代および現代という時代区分をとるので、この時代区分法に基づいて、以下日本法制史の変遷を概観する。
[石井良助]
上代は、法と宗教との未分離を特徴とする氏族時代である。その初めは紀元前2、3世紀ごろで、それから紀元後2世紀ごろまでの弥生(やよい)時代が前期で、この時期には北九州中心の銅剣銅鉾(どうほこ)文化圏と畿内(きない)中心の銅鐸(どうたく)文化圏との対立をみたが、両者は2世紀の末ごろ、銅鐸文化圏の邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)によって統合されたと考えられる。卑弥呼の相続人臺与(とよ)の時代に、政権は天皇の祖先(崇神(すじん)天皇)に移ったと解する。卑弥呼による統合以後、400年前後神功(じんぐう)皇后が現れたといわれるころまでが中期であり、卑弥呼や神功皇后の言い伝えにみえるように、この時期では、すめらみこと(統合者)や氏上(うじのかみ)が神憑(かみがか)りの状態で述べるところが「ノリ」であり、それがまた法でもあった。ここに法と宗教との未分離がうかがわれるが、5世紀の初めごろからこの神の威力はしだいに衰えた。そして、その衰えたところに、中国から非宗教的な律令(りつりょう)制度が継受され、ここに上世が始まるのである。
[石井良助]
上世は603年(推古天皇11)から平安時代の中ごろ967年(康保4)までである。前期は702年(大宝2)までである。645年(大化1)に、それまでの、天皇が諸氏上を統合する制は廃止されて日本は、天皇が全国を統一する統一国家となり(大化改新)、702年に大宝(たいほう)律令が施行されて律令制の継受は完成し、律令的統一国家の形式が整った。これ以後810年(弘仁1)までが中期で、律令制の全盛期であり、天皇は公的な太政官(だいじょうかん)の上にあって親政したのである。810年以後も天皇親政は続くが、太政官の権力は、同年設置の、私的性格の強い、秘書官局ともいうべき蔵人所(くろうどどころ)に移った。この時期が上世後期である。
[石井良助]
中世は967年から応仁(おうにん)の乱勃発(ぼっぱつ)の1467年(応仁1)までで、公私混交の時代である。967年以後は政治的には摂関常置の摂関政治の時代となり、やがて上皇の院政時代となる。この間、公私混交の集中的表現ともいうべき荘園(しょうえん)が発達するとともに、武士の発達もみられる。平家の公家(くげ)武家混交政治の時代のあと、1185年(文治1)に源頼朝(よりとも)が日本66国の総守護総地頭(じとう)に任ぜられるに及び、荘園制と武士の主従制とは政治的に結び付いて、荘園に財源を求める荘園的封建制が生まれ、ここに中期(鎌倉時代)に入る。中期では荘園と封建制とはとにかく平衡状態にあり、天皇にもある程度の政治的権能はあったが、1333年(元弘3・正慶2)鎌倉幕府の没落とともに後期(室町時代)に入る。南北朝時代には戦乱が続き、室町将軍はいちおう諸国を統合するも、有力武士は荘園を侵略し、各国守護はその管轄国をあたかも領国のように扱うようになり、天皇はこの間にほとんど政権を失った。
[石井良助]
1467年(応仁1)以後は近世である。その前期、戦国時代には、国主大名がその分国を支配し、彼らを統合する権力者は存在しなかったが、この戦乱の間に近世的な村落が発達した。1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉の九州征伐の年に中期に入る。秀吉の行った村を単位とする太閤(たいこう)検地は、そのころまで残存した中世的土地制度を廃して、村落を基礎とする近世的封建制の土台を築き、江戸幕府はこれを受けて藩村的封建制(藩すなわち大名の領分が村によって構成されている封建制)を完成させた。日本は徳川将軍を統合者とする封建的統合国家となったのである。8代将軍吉宗(よしむね)の時代までは藩村的封建制の盛期であるが、公事方御定書(くじかたおさだめがき)制定の1742年(寛保2)に後期に入る。本期には尊王論が勃興(ぼっこう)し、外交問題と合して、幕府の土台を揺すった。1858年(安政5)幕府は日米修好通商条約の勅許を求めたが失敗し、ここに幕府は鼎(かなえ)の軽重を問われることになったので、この年以後を近代とする。
[石井良助]
1867年(慶応3)の大政奉還により、明治政府が成立し、69年(明治2)の版籍奉還により日本は「近代的」統一国家となり、公私は分離した。明治初年は近世から近代へ移る過渡期であるが、罪刑法定主義を定めた旧刑法の施行された82年をもって中期に入る。89年発布の明治憲法や民法その他ドイツ法またはフランス法の影響の下に成った法典によって日本法は近代化されたが、君権の強力な立憲制に典型的にみられるように、その近代化は不徹底であった。1931年(昭和6)満州事変の勃発とともに後期に入るが、世は非常時となり、明治憲法にみられる議会主義すら軽視されるようになった。そして45年の第二次大戦終結によって近代は終了し、英米法の影響を強く受ける国民主権の民主的立憲制の現代に入ったのである。
[石井良助]
『H・コーイング著、久保正幡他訳『近代法への歩み』(1969・東京大学出版会)』▽『船田享二著『ローマ法』全5巻(1968~72・岩波書店)』▽『ミッタイス、リーベリッヒ著、世良晃志郎訳『ドイツ法制史概説』改訂版(1971・創文社)』▽『オリヴィエ・マルタン著、塙浩訳『フランス法制史概説』(1986・創文社)』▽『仁井田陞著『中国法制史』増訂版(1963・岩波書店)』▽『滋賀秀三著『中国家族法の原理』(1967・創文社)』▽『滝川政次郎著『日本法制史』上下(覆刻版・講談社学術文庫)』▽『石井良助著『体系日本史叢書4 法制史』(1964・山川出版社)』▽『石井良助著『略説 日本国家史』(1972・東京大学出版会)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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