天童城(読み)てんどうじょう

日本の城がわかる事典 「天童城」の解説

てんどうじょう【天童城】

山形県天童市の舞鶴山(標高241.8m)にあった山城(やまじろ)。全山を城塞化した規模の大きな城で、村山地方で最大の山城といわれている。南北朝時代に北畠親房の末裔の北畠天童丸が南朝方の拠点として居館を構えたのが最初。1375年(永和1/天授1)には、斯波兼頼(奥州探題斯波家兼の次男、最上氏の祖)の孫の里見義直が入城して天童氏を名乗り、その後、里見氏の家系が途絶えると、最上氏一門の最上頼直が養子となって城主となり、天童の姓を引き継いだ。こののち天童氏は、この城を拠点に村上郡の大勢力となり、最上八楯の中心的な存在として、米沢の伊達氏と誼を通じて山形城の最上氏と対立した。1577年(天正5)、天童城を攻めた最上義光を撃退したが、1584年(天正12)、義光の再度の天童城攻めの際、延沢信景などの家臣の裏切りにより落城し、その後廃城となった。1830年(天保1)、織田氏(織田信長の次男信雄(のぶかつ)の後裔)が現在の群馬県から転封されて天童藩主となり、舞鶴山の西麓(同市田鶴町)に外堀内堀を持つ御館(おたて)といわれる陣屋を築いた。天童藩は戊辰戦争で新政府側に与し、旧幕府方の庄内藩を攻撃したが、逆に攻め込まれ、その際に陣屋は焼失した。現在、城跡は天童公園(天童市舞鶴山公園)として整備され、桜やつつじの名所となっている。人間将棋の行われる巨大な将棋盤もここにある。中世の山城跡には郭・井戸跡がわずかに残っている。また、本丸跡には愛宕神社が建っているが、同神社は最上義光が同城攻略後に勧請したものだとされている。ちなみに、義光は二度にわたる城攻めで、その堅固さに手を焼き、こののち城として利用できないよう愛宕神社を建立したともいわれている。また、天童は「将棋」で有名だが、その歴史は、江戸時代の織田氏の入部とともに始まった。JR山形新幹線の天童駅から車で約10分。◇舞鶴城とも呼ばれる。また、織田氏の築いた山麓の陣屋を天童城、天童氏の居城だった山城を天童古城と称することがある。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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