朝日日本歴史人物事典 「天野八郎」の解説
天野八郎
生年:天保2(1831)
幕末の佐幕派志士,彰義隊士。上野国甘楽郡(群馬県多野郡,富岡市)の農家の次男に生まれ,村民間の係争を解決するなどして声望を得る。文久1(1861)年武士を志して江戸へ赴く。明治1(1868)年1月鳥羽・伏見の戦に敗れ徳川慶喜が江戸帰還,再挙を図る旧幕臣の会合がありこれに参加。渋沢成一郎頭取のもと副頭取となる。本営を浅草から上野に移し,隊名を彰義隊とし,総勢2000を号した。内部対立により渋沢が脱走し,隊の実権を掌握して新政府軍と対峙。5月15日新政府軍の一斉攻撃を受け敗走。7月逮捕され下獄,病を得て没す。遺骸は小塚原に埋められ,明治23年南千住円通寺に改葬された。田辺太一の寄せた碑文に次のようにある。「君人と為り短小豊肥,眼光炯々人を射る。議論風発慷慨の気眉目の間に露はる。……侠たり義たり,惟斯君有り。嗚呼千載の下,永く阪東の男子をして涙痕を留めしむるは,此三尺の墳か」。<参考文献>山崎有信『幕末史譚天野八郎伝』
(井上勲)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報