彰義隊(読み)ショウギタイ

デジタル大辞泉 「彰義隊」の意味・読み・例文・類語

しょうぎ‐たい〔シヤウギ‐〕【彰義隊】

慶応4年(1868)2月、徳川慶喜とくがわよしのぶの恭順を喜ばない旧幕臣が結成した団体。江戸開城後、上野の寛永寺に立てこもって明治新政府に反抗したが、5月、大村益次郎の率いる政府軍に壊滅させられた。一部は榎本武揚と旧幕府の軍艦で逃亡、箱館戦争に参加した。

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精選版 日本国語大辞典 「彰義隊」の意味・読み・例文・類語

しょうぎ‐たいシャウギ‥【彰義隊】

  1. 明治元年一八六八)の戊辰戦争の際、新政府軍と戦った旧幕府方の武士団。鳥羽伏見の戦いで敗れて江戸に謹慎中の前将軍徳川慶喜護衛し、江戸市中を巡回警備する目的で結成され、浅草本願寺(のち上野寛永寺)を屯所としたが、同年五月一五日、大村益次郎の指揮する征討軍と戦って壊滅。その一部は榎本武揚のひきいる旧幕艦に便乗して転戦。箱館の五稜郭の戦いに参加した。

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改訂新版 世界大百科事典 「彰義隊」の意味・わかりやすい解説

彰義隊 (しょうぎたい)

明治維新の戊辰戦争に江戸で抗戦した佐幕派の隊。鳥羽・伏見の戦に敗れた徳川慶喜は江戸へ帰り,上野寛永寺に謹慎して恭順の意を示したが,慶喜側近の旧幕臣らを中心とする強硬派約800人は官軍に対して徹底抗戦を唱え,尊王恭順有志会に集まり,やがて1868年3月16日(明治1年2月23日),彰義隊を結成した。彼らは,頭取に慶喜側近の旧幕臣渋沢成一郎(喜作),副頭取に天野八郎をえらび,浅草本願寺を屯所とし,慶喜護衛を唱えて江戸市中巡邏(じゆんら)に当たった。その後,屯所を上野に移したが,隊の内紛のため渋沢は脱隊し,副頭取天野が実権を握った。旗本や諸藩浪士の隊中に投ずる者が多く,勢力は3000余人に達した。5月3日(4月11日)の江戸開城後,慶喜は水戸へ去り,彰義隊は慶喜らの説得を退け,輪王寺宮能久親王を擁して上野寛永寺に入り,官軍に反抗の姿勢を示した。官軍は初め態勢が整わず,これを静観したが,軍防事務局判事大村益次郎が着任して強硬方針を固め,彰義隊の江戸巡邏の任を解き,7月4日(5月15日)上野を包囲し,大村の指揮下,いっせいに攻撃を開始した。旧式軍備の彰義隊は黒門口などで奮戦したが,官軍の最新鋭の砲兵隊らのために1日で壊滅し,生存者奥羽越列藩同盟に走り,また品川沖に停泊中の旧海軍副総裁榎本武揚のひきいる旧幕艦隊に投じ,輪王寺宮も品川から海路奥羽へ脱出した。上野寛永寺はこの戦いにより全焼した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「彰義隊」の意味・わかりやすい解説

彰義隊
しょうぎたい

戊辰(ぼしん)戦争の佐幕派の軍事集団。鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れた将軍徳川慶喜(よしのぶ)が江戸に帰り上野に謹慎した1868年(慶応4)2月12日、旧一橋(ひとつばし)家家臣17名が江戸雑司谷(ぞうしがや)に会合して慶喜の復権と薩摩(さつま)討伐を協議、賛同者60余名を得て尊王恭順有志会を結成した。23日、隊名を彰義隊とし、頭取を渋沢成一郎(せいいちろう)、副頭取を天野(あまの)八郎とし、屯所を浅草・本願寺に置いた。徳川家がこれを公認し江戸市中警衛を委任するや、慶喜護衛を名目に上野に移転。江戸城が開城し、慶喜が水戸に去ってからも屯所を動かさなかった。のち内部対立があり、渋沢は脱隊して別に飯能(はんのう)(埼玉県)で振武(しんぶ)隊を結成したが、彰義隊に入隊する者が相次いで総員1500余名を数え、関東の旧幕勢力と気脈を通じて新政府軍との対立を深めていった。当初、東征大総督は兵力不足から攻撃を控えていたが、三条実美(さねとみ)と大村益次郎(ますじろう)の江戸着任後、討伐を決意。同年5月1日、徳川(田安(たやす))慶頼(よしより)の江戸市中警衛の任を解いて総督府がこれにあたることとし、彰義隊の合法性を剥奪(はくだつ)した。15日、大村の指揮のもとに上野を攻撃、彰義隊は壊滅し、残党は東北地方に逃走、関東は維新政府の支配下に入った。

[井上 勲]

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百科事典マイペディア 「彰義隊」の意味・わかりやすい解説

彰義隊【しょうぎたい】

戊辰戦争で江戸で抗戦した佐幕派の部隊。1868年3月(慶応4年2月)結成。頭取は徳川慶喜側近の渋沢成一郎,副頭取天野八郎。旧幕臣を中心に諸藩の脱走兵も加わり,江戸浅草本願寺を屯所に市中巡邏(じゅんら)に当たった。渋沢脱隊後は天野が実権を握り,江戸開城後は輪王寺宮能久(よしひさ)親王を擁して上野寛永寺に入り抗戦の姿勢を示したが,同年7月4日(旧5月15日)総攻撃を受けて壊滅。生存者は奥羽越列藩同盟榎本武揚の下に身を投じた。
→関連項目佐久間貞一

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「彰義隊」の意味・わかりやすい解説

彰義隊
しょうぎたい

明治維新期,旧幕臣が編成した反政府集団。慶応4 (1868) 年4月江戸城は平和裡に東征軍 (官軍) に明渡されたが,江戸には鳥羽・伏見の敗戦以来,官軍に対する徹底抗戦を叫ぶ旧幕臣が,同年2月彰義隊を結成していた。その数は 3000人に達し,渋沢成一郎が頭取となり,彼の脱隊後は副頭取天野八郎が実権を掌握した。彼らは上野東叡山住職輪王寺宮公現法親王 (こうげんほっしんのう) を擁し,市中警備を名として,寛永寺一帯を屯所とした。長州藩の大村益次郎を総指揮者とする東征軍は軍資金の不足から衝突を回避していたが,5月 15日の資金調達を待って一斉攻撃をかけ,ただちに陥落させた。首領天野は市中で捕えられ,敗走者は輪王寺宮とともに奥州に逃れた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「彰義隊」の解説

彰義隊
しょうぎたい

戊辰(ぼしん)戦争時の上野戦争で新政府軍と戦った旧幕臣隊。1868年(明治元)2月23日,徳川慶喜(よしのぶ)側近の渋沢喜作(きさく)を頭取,天野八郎を副頭取として,慶喜の護衛と江戸市中の警衛を名目に結成され,旧幕臣を中心に牢人も加わり隊員は3000人にのぼった。4月の江戸開城後はしばしば政府軍と衝突,慶喜の水戸退去後も上野寛永寺にたてこもって抵抗したが,5月15日大村益次郎の率いる新政府軍の一斉攻撃をうけて壊滅,一部は榎本武揚(たけあき)の旧幕艦隊に加わった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「彰義隊」の解説

彰義隊
しょうぎたい

1868年,江戸開城に反対し,維新政府軍と戦った旧幕臣の一隊
鳥羽・伏見の戦い後,徳川慶喜 (よしのぶ) の新政府に対する恭順を不満とした渋沢成一郎(喜作)ら旧幕臣の有志が結成。江戸開城後,上野寛永寺を根拠地として抗戦したが,新政府軍の総攻撃をうけて壊滅した。

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