明治維新の戊辰戦争に江戸で抗戦した佐幕派の隊。鳥羽・伏見の戦に敗れた徳川慶喜は江戸へ帰り,上野寛永寺に謹慎して恭順の意を示したが,慶喜側近の旧幕臣らを中心とする強硬派約800人は官軍に対して徹底抗戦を唱え,尊王恭順有志会に集まり,やがて1868年3月16日(明治1年2月23日),彰義隊を結成した。彼らは,頭取に慶喜側近の旧幕臣渋沢成一郎(喜作),副頭取に天野八郎をえらび,浅草本願寺を屯所とし,慶喜護衛を唱えて江戸市中巡邏(じゆんら)に当たった。その後,屯所を上野に移したが,隊の内紛のため渋沢は脱隊し,副頭取天野が実権を握った。旗本や諸藩浪士の隊中に投ずる者が多く,勢力は3000余人に達した。5月3日(4月11日)の江戸開城後,慶喜は水戸へ去り,彰義隊は慶喜らの説得を退け,輪王寺宮能久親王を擁して上野寛永寺に入り,官軍に反抗の姿勢を示した。官軍は初め態勢が整わず,これを静観したが,軍防事務局判事大村益次郎が着任して強硬方針を固め,彰義隊の江戸巡邏の任を解き,7月4日(5月15日)上野を包囲し,大村の指揮下,いっせいに攻撃を開始した。旧式軍備の彰義隊は黒門口などで奮戦したが,官軍の最新鋭の砲兵隊らのために1日で壊滅し,生存者は奥羽越列藩同盟に走り,また品川沖に停泊中の旧海軍副総裁榎本武揚のひきいる旧幕艦隊に投じ,輪王寺宮も品川から海路奥羽へ脱出した。上野寛永寺はこの戦いにより全焼した。
執筆者:井上 勝生
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戊辰(ぼしん)戦争の佐幕派の軍事集団。鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れた将軍徳川慶喜(よしのぶ)が江戸に帰り上野に謹慎した1868年(慶応4)2月12日、旧一橋(ひとつばし)家家臣17名が江戸雑司谷(ぞうしがや)に会合して慶喜の復権と薩摩(さつま)討伐を協議、賛同者60余名を得て尊王恭順有志会を結成した。23日、隊名を彰義隊とし、頭取を渋沢成一郎(せいいちろう)、副頭取を天野(あまの)八郎とし、屯所を浅草・本願寺に置いた。徳川家がこれを公認し江戸市中警衛を委任するや、慶喜護衛を名目に上野に移転。江戸城が開城し、慶喜が水戸に去ってからも屯所を動かさなかった。のち内部対立があり、渋沢は脱隊して別に飯能(はんのう)(埼玉県)で振武(しんぶ)隊を結成したが、彰義隊に入隊する者が相次いで総員1500余名を数え、関東の旧幕勢力と気脈を通じて新政府軍との対立を深めていった。当初、東征大総督は兵力不足から攻撃を控えていたが、三条実美(さねとみ)と大村益次郎(ますじろう)の江戸着任後、討伐を決意。同年5月1日、徳川(田安(たやす))慶頼(よしより)の江戸市中警衛の任を解いて総督府がこれにあたることとし、彰義隊の合法性を剥奪(はくだつ)した。15日、大村の指揮のもとに上野を攻撃、彰義隊は壊滅し、残党は東北地方に逃走、関東は維新政府の支配下に入った。
[井上 勲]
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戊辰(ぼしん)戦争時の上野戦争で新政府軍と戦った旧幕臣隊。1868年(明治元)2月23日,徳川慶喜(よしのぶ)側近の渋沢喜作(きさく)を頭取,天野八郎を副頭取として,慶喜の護衛と江戸市中の警衛を名目に結成され,旧幕臣を中心に牢人も加わり隊員は3000人にのぼった。4月の江戸開城後はしばしば政府軍と衝突,慶喜の水戸退去後も上野寛永寺にたてこもって抵抗したが,5月15日大村益次郎の率いる新政府軍の一斉攻撃をうけて壊滅,一部は榎本武揚(たけあき)の旧幕艦隊に加わった。
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