天竜山石窟(読み)テンリュウザンセックツ

デジタル大辞泉 「天竜山石窟」の意味・読み・例文・類語

てんりゅうざん‐せっくつ〔‐セキクツ〕【天竜山石窟】

中国山西省太原市西南の天竜山にある仏教石窟寺。東魏から代にかけて二十余窟が造営された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「天竜山石窟」の意味・わかりやすい解説

天竜山石窟
てんりゅうざんせっくつ

中国、山西省太原市の南西17キロメートルにある石窟。1918年(大正7)に関野貞(ただし)が踏査し、その後、1920年に常盤大定(ときわだいじょう)が、1922年に田中俊逸が探査を行っている。石窟は白い砂岩質の岩山開削したもので、中央に谷を挟んで左峰と右峰に分かれて合計24窟が存在するといわれている。天竜山石窟の開削の由来は明らかでないが、太原(晋陽(しんよう))は東魏(とうぎ)の高歓(こうかん)がいた所で、その子の文宣帝在位550~559)が北斉(ほくせい)を称し、鄴(ぎょう)に都したのちも、太原は別都として重要な位置を占めていた。したがって天竜山石窟には、東魏時代までさかのぼる第2・第3洞、あるいは北斉に属すると考えられる第10・第16洞など比較的古い石窟が存在する。左峰の第1・第8洞は外壁に碑形があり、隋(ずい)の「開皇云々」、あるいは「歳次甲辰年」(隋開皇4年=584年と考えられる)の銘記があり、両窟は隋代のものと推定されている。その他の窟は唐代の開削であるが、唐窟の石像は中国仏像史上まれな写実性をもつ仏像である。唐窟では窟内三方に浅い龕(がん)を設け、そこに仏像を彫ったものが一般的である。天竜山石窟は1920年代に大破壊を受け、多くの石像が海外へ流出し、めぼしい石像は消滅している。

[飯島武次]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「天竜山石窟」の意味・わかりやすい解説

天竜山石窟
てんりゅうざんせっくつ
Tian-long-shan shi-ku

中国,山西省太原市の南西約 17kmにある石窟。東魏,北斉,隋,唐の各時代に続営された 24洞がある。東魏の第2,3洞は最も古式で,平面方形,天井は覆斗形,3壁に三尊形式の仏龕があり,仏像はいずれも北魏式。斉の第 10,16洞も平面方形で,3壁に五尊像のあるアーチ形の仏龕があり,仏像はふくよかで丸みがある。隋の第1洞は第2,3洞によく似た三壁三龕であるが,仏像は隋式で,碑文に「開皇」の文字がみられる。同じく隋の第8洞は方柱窟で,三壁三龕は五尊仏,方柱の四面には三尊形式のが彫られている。第4,5,6,7洞は小窟で,唐代則天武后の時代の造営と考えられ,第 14,17,18,21,22洞は大窟で,玄宗時代と考えられている。天竜山の唐代仏像は肉体表現が細かく,かつ写実的である点が注目される。

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改訂新版 世界大百科事典 「天竜山石窟」の意味・わかりやすい解説

天竜山石窟 (てんりゅうざんせっくつ)
Tiān lóng shān shí kū

中国,山西省太原市南西40kmの山中にある仏教石窟で,砂岩より成る山腹の南西面に開掘。東魏から唐に及ぶ。8窟が東部に,13窟が西部にある。東魏(第2,3窟),北斉(第10,16窟)は方形窟で覆斗形天井をもち,三尊形式の仏龕(ぶつがん)を3壁につくる。第1~8窟の隋窟は,方柱を中心にすえた方形窟で,塔廟窟の系統を伝える。唐窟は7~8世紀の交にあたる東部の4窟と,西部5窟がある。
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百科事典マイペディア 「天竜山石窟」の意味・わかりやすい解説

天竜山石窟【てんりゅうざんせっくつ】

中国,山西省太原の南西にある東魏〜隋唐の仏教石窟寺院。唐代の窟が最も多く,中に刻された彫像は写実的な面が濃厚で,立体感のある豊満な肉体描写が特徴。

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