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中国,河内温(河南省温県)の司馬氏が建てた王朝。265-420年。都が洛陽に置かれた時代を西晋,都が江南の建康(南京)にうつった317年以後を東晋とよぶ。
後漢の清流士大夫の流れをくむ名族の司馬氏は,魏の重臣となった司馬懿(しばい)が249年(嘉平1)のクーデタによって反対党の曹爽(そうそう)一派を倒して以来,その子の司馬師・司馬昭の時代にいたってますます権勢をほしいままにした。魏の第4代皇帝高貴郷公が〈司馬昭の心は路人も知る所〉といったように,司馬氏の奪の意図はあらわとなり,ついに265年,司馬炎(武帝)が魏を奪って王朝を開いた。王朝創業に先立つ263年(景元4)に蜀はすでに滅び,280年(太康1)に呉を征服して天下統一を実現した武帝時代には,税制の〈戸調式〉と土地制度の占田・課田制(占田制)が全国に施行された。これらは後世の租庸調制と均田制の先駆とされる。また魏以来の〈九品官人法〉は,新たに州大中正が設置されることによっていっそう門閥中心に運営され,門閥貴族制社会の確立を促した。しかし州郡の兵力を大幅に削減し,それとひきかえに中央の禁軍ならびに地方の軍事力を宗室諸王が掌握したことは,恵帝以後の混乱をまねく結果となった。外戚の楊氏ならびに賈氏の専権,彼らをまきこみつつあくことのない私権の拡大をめざして争われた八王の乱,そしてその間隙をついて立ち上がったのは,すでに中国の内地に入りこんで定住生活を営んでいた異民族であった。彼らはしだいに自立的な国家建設をめざし,かくして都の洛陽は,山西省に漢国を立てた匈奴の劉氏の攻撃をうけて壊滅(311),永嘉の乱とよばれるこの事件以後,華北は五胡十六国の異民族支配の時代をむかえ,晋王朝は江南にうつった。天下統一はわずか30年で瓦解したのである。
江南に再興された晋王朝,すなわち東晋正朝では,王氏や謝氏など華北から江南にやってきた貴族が社会に君臨し,江南土着の諸勢力はかえってその下風に立つ体制が作りあげられた。江南の名族たちにしても,北来貴族の文化的先進性に脱帽せざるをえなかったのである。このような体制を作りあげるにあたって巧みな政治力を発揮したのは,東晋初代の天子元帝の片腕となった宰相の王導であり,司馬氏と王氏との協同になる政権,というよりもむしろ王氏指導型の政権を,当時の人々は〈王と馬と天下を共にす〉と評した。王敦の乱(322-324),蘇峻の乱(327-329)など,再興直後の危機を乗り切った王朝は順調な発展をとげ,江南の開発もめざましい勢いで進められた。王羲之の書や顧愷之(こがいし)の画に代表される繊細優美な芸術を生んだのもこの時代であり,それは江南の自然風土と無関係ではないであろう。
ところで東晋王朝は,そもそもの成立の事情が物語っているように,華北に興亡を繰り返す異民族政権とのきびしい緊張関係のもとに立たされたが,その軍事力を支えたのは,北府と西府の二つの軍団であった。京口(江蘇省鎮江)ないしは広陵(揚州)を拠点とする北府軍団を構成したのは,そもそも華北の戦乱を避けて長江(揚子江)下流のデルタ地帯に住みついた流民たちであり,やがて彼らは代々兵役の義務を負う兵戸となったのである。一方,西府軍団は長江中流域を拠点とした。ただしこれらの軍団を統率したのは,北府の場合には郗(ち)氏や謝氏など,西府の場合には庾(ゆ)氏や桓氏など,やはり一流の貴族であったことに注意しなければならない。そして東晋の政局は,北府と西府の動向を軸として展開された。
たとえば西府をバックとする軍閥の桓温(かんおん)は,蜀の成漢国を滅した(347)のを手始めに,再三にわたる北伐を敢行し,356年(永和12)にはごく一時的ではあるが旧都洛陽の奪還に成功,かかる武功によってにらみをきかせ,禅譲革命をもくろんだ。そのもくろみを失敗に終わらせたのは,宰相謝安の手腕によるところが大であったが,謝安時代にはまた江南の征服をめざして進攻した前秦の苻堅の大軍を淝水の戦で破り(383),難局を切り抜けることを得た。淝水の戦の立役者は謝玄の率いる北府軍団であり,これ以後,北府の位置は以前にもましていちだんと高まったといえる。4世紀末の政権を担当した司馬道子・司馬元顕父子に対して,その政治の乱脈の改革を強硬に迫った王恭は北府軍団長であった。王恭は敗死したが(398),政府の乱脈の機をとらえて蜂起した道教徒の民衆反乱,すなわち孫恩の乱を平定したのも,また桓玄を駆逐したのも北府軍団の力であった。桓玄は桓温の子。孫恩の乱の平定を口実に建康に乗り込んだ桓玄は,安帝を廃位させてみずから帝位につき,楚国と号したのである(403)。そして東晋王朝の息の根を最終的に止めたのは,やはり北府軍団の一部将の地位からしだいに頭角をあらわし,南燕と後秦の北伐に成功した劉裕(宋の武帝)であった。
→魏晋南北朝時代
執筆者:吉川 忠夫
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①〔周〕?~前376 山西省汾水(ふんすい)流域を本拠とする周代の侯国。前7世紀前半から強力となり,山西の大半,河南北部を支配し,文公のとき中原の覇者となり(前632年),以後100年間楚(そ)と対立した。やがて政権は権臣に移り,領域は韓氏,趙(ちょう)氏,魏氏の3家(三晋)に分割されて(前453年),滅びた。都は絳(こう)(山西省侯馬市)。
②〔魏晋南北朝〕(1)西晋(265~316)魏の権臣司馬懿(しばい)が249年クーデタで魏の実権を握り,その子司馬師をへて,弟司馬昭のとき263年蜀(しょく)を併せ,その功で晋王に封ぜられ,265年その子司馬炎(武帝)が魏の元帝の禅譲で位についた。炎は280年呉を併せて天下を統一し,占田・課田の法をしいた。炎は初め一族を諸王に封じて兵権を授けたが,炎の死後八王の乱が起こって西晋は混乱した。それに乗じて匈奴(きょうど)の劉淵(りゅうえん)が山西に国を建て,子の劉聰(りゅうそう)は洛陽を陥れて懐帝を捕え(311年),ついで劉曜(りゅうよう)は長安に愍帝(びんてい)を捕えて西晋を滅ぼした(316年)。いわゆる永嘉(えいか)の乱で,西晋は4代で滅亡し,これより華北は五胡十六国に入る。(2)東晋(317~420)これよりさき,建業にあった司馬睿(しばえい)は名族王導らの支持で即位し,東晋を建てた。これを頼って南方にくる中原の名族が多く,江南の開発も進み文化も盛んとなったが,東晋の皇室は,彼ら名族と土着の豪族との調整に苦心した。東晋の帝権は弱く,王敦(おうとん),蘇峻(そしゅん),桓玄(かんげん)ら将軍の政権争いが続いたが,その間謝玄(しゃげん)は前秦の苻堅(ふけん)の南進を淝水(ひすい)の戦いで破った。東晋の末近く道教徒の孫恩(そんおん)らの乱が起こり,これに乗じて簒奪を企てた桓玄を殺した劉裕(りゅうゆう)が台頭して,420年恭帝の禅譲を受け宋を建てた。東晋は11代で滅んだ。
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中国の王朝。西晋(265~316)と東晋(317~420)に分かれ、司馬炎(しばえん)(武帝)が洛陽(らくよう)を都に西晋をたて、宗室の司馬睿(えい)(元帝)が建康(南京(ナンキン))に東晋を興した。司馬氏は河内(かだい)郡(河南省)の名族で、炎の祖父懿(い)以来、三国魏(ぎ)の国政を牛耳(ぎゅうじ)り、父の昭は蜀(しょく)平定の殊勲をあげて晋王に進んだが急死、炎が後を継いで禅譲(ぜんじょう)革命を続行し、王朝を開いた。武帝は貴族の特権を認めるとともに皇族分封制を行って国の基盤を固め、280年呉を平定して天下を統一し、占田・課田制や戸調式など斬新(ざんしん)な政策を施行した。しかし晩年は女色におぼれて実権を外戚(がいせき)にゆだね、社会にも奢侈(しゃし)や朋党(ほうとう)の風潮が広まった。その子の恵帝は暗愚で、賈(か)皇后の一党が権力をほしいままにし、それに反発して300年趙(ちょう)王司馬倫が挙兵して八王の乱が起こった。この乱を機に、漢人の圧迫に苦しんでいた非漢民族の五胡(ごこ)(匈奴(きょうど)、羯(けつ)、鮮卑(せんぴ)、氐(てい)、羌(きょう))が自立運動を開始して永嘉(えいか)の乱が始まり、南匈奴の劉聡(りゅうそう)が311年洛陽を攻め落として懐帝を捕らえ、その子劉曜も316年愍帝(びんてい)を捕らえて、晋はいったん滅びた。
これより前、華北の混乱を避けて建康へ移鎮していた琅邪(ろうや)王司馬睿が、名族王導の活躍で亡命貴族や江南豪族の支持を集め、317年東晋を興した。しかし君権は微弱で、初め軍閥王敦(おうとん)の乱や蘇峻(そしゅん)の乱が相次ぎ、371年にも桓温(かんおん)が皇帝を廃立して簒奪(さんだつ)を計った。対外的にも五胡の圧迫に苦しみ、名臣謝安が383年前秦(ぜんしん)苻堅(ふけん)の侵略を淝水(ひすい)の戦いで撃退して、一時国勢を盛り上げたものの、第9代孝武帝の弟司馬道子が政治を乱し、権門の土地占拠や逃亡戸の隠匿が進んだ。このため、399年道教系の民衆反乱である孫恩の乱が起こり、また桓温の子桓玄が司馬道子に対抗して勢力を伸ばし、第10代安帝に位を譲らせて楚(そ)王朝(403~404)を開き、王統はとだえた。これに対して武将の劉裕(りゅうゆう)(宋(そう)の武帝)が桓玄を討って安帝を復辟(ふくへき)したが、南燕(なんえん)や後秦(こうしん)を滅ぼすなど内外に勲功著しい劉裕は、まもなく安帝の弟恭帝(きょうてい)に禅譲を迫り、東晋は11代で滅びた。
九品官人(きゅうひんかんじん)法が家柄本位で運用されて貴族制が発展し、貴族の間で老荘思想や仏教、自然愛好の風が広まって清談や隠逸(いんいつ)が流行し、山水詩が始まるなど文学、書、絵画が隆盛した。また東晋期、華北から大量の人口が流入して江南地方の開発が急速に進んだ。
[安田二郎]
中国、周代の諸侯国の一つ。姫(き)姓。周の成王の弟の唐叔虞(とうしゅくぐ)が唐(山西省翼城県)に封ぜられたのに始まり、子の燮(しょう)のときから晋侯を称するようになった。春秋時代初め、国は一時分裂状態となったが、曲沃(きょくよく)(山西省曲沃県)の武公に統一され、子の献公のときには絳(こう)(山西省翼城県南東)に遷都し、周囲の小国をあわせて領土を広げた。その死後、後嗣(こうし)問題で一時国は乱れたが、文公が即位すると国力の充実に努め、城濮(じょうぼく)の戦い(前632)で楚(そ)を破り中原(ちゅうげん)の覇者となった。その後、中原の強国として、秦(しん)、楚、斉(せい)と抗争を続け、景公のときには新田(山西省侯馬市)に遷都し、領土も山西省の外にまで拡大した。
しかし、春秋時代末になると、晋とは異姓の臣下を中心とした六卿(りくけい)がしだいに強力となり、国政の実権を握るようになった。戦国時代初め、幽公のときには韓(かん)、魏(ぎ)、趙(ちょう)の3家が国を実質上分割し、まもなく3家は周王によって諸侯に列せられた。そして、紀元前376年には3家によって静公が廃され、晋は滅びた。
[江村治樹]
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西晋とも。中国の魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国時代に続く統一王朝(265~316)。都は洛陽。魏の末,蜀を攻撃して台頭した司馬氏は,司馬炎(しばえん)に至って魏の元帝から禅譲をうけ王朝を開いた。268年泰始律令を制定し,占田・課田法により民政の安定を得,280年呉を平定して統一を達成した。東夷諸国をはじめ外夷の朝貢をよくうけ,266年には倭の女王も遣使朝貢した。しかし八王の乱(300~306)で社会は混乱し,その隙に華北に五胡(ごこ)が侵入。311年匈奴(きょうど)が洛陽を陥し,懐帝を捕らえた。ついで愍帝(びんてい)も捕らえられ王朝は滅んだ。のち江南に東晋が再興された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…太行山脈の西に当たるのでその名が生まれた。別名は晋(しん)。面積15万6300km2,人口3109万(1996)。…
…前半の大半の期間のことが魯国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国晋の家臣であった韓・魏・趙の3代が主家を三分独立し,晋は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれる韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦の対立抗争の時代となるからである。
[歴史]
《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,魯(山東省曲阜),斉(山東省臨淄(りんし)),曹(山東省定陶),衛(河南省淇県,のち滑県),鄭(河南省新鄭),宋(河南省商丘),陳(河南省淮陽(わいよう)),蔡(河南省上蔡,のち新蔡,さらに安徽省鳳台),晋(山西省曲沃),秦(陝西省鳳翔,のち咸陽),楚(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),燕(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には周王室があった。…
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