本門寺(読み)ホンモンジ

デジタル大辞泉 「本門寺」の意味・読み・例文・類語

ほんもん‐じ【本門寺】

東京都大田区にある日蓮宗の寺。日蓮宗四大本山の一。山号は、長栄山。文永11年(1274)池上宗仲の宅を寺としたのが始まりで、日蓮の命名。日蓮はここで入滅。池上本門寺
静岡県富士宮市北山にある日蓮宗の霊跡寺院。山号は、富士山。永仁6年(1298)に日興が創建。富士門流の拠点。北山本門寺。
静岡県富士宮市西山にある日蓮宗系の単立宗教法人の寺。山号は、富士山。興国4=康永2年(1343)北山本門寺第2世の日代が当地に移り開創したもの。西山本門寺

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精選版 日本国語大辞典 「本門寺」の意味・読み・例文・類語

ほんもん‐じ【本門寺】

  1. [ 一 ] 東京都大田区池上にある日蓮宗の大本山。山号は長栄山。開基は池上宗仲・宗長。開山は日蓮。創立は文永一一年(一二七四)。日蓮入滅の地。一〇月に行なわれる御会(おえ)式は名高い。鎌倉の長興山妙本寺・千葉県松戸市の長谷山本土寺と共に日蓮宗三長三本の寺と呼ばれる。池上本門寺。
  2. [ 二 ] 静岡県富士宮市北山にある日蓮宗の大本山。もと日蓮宗興門派。山号は富士山。永仁六年(一二九八)開創。開山は日興。北山本門寺。
  3. [ 三 ] 静岡県富士郡芝川町西山にある単立宗教法人の寺。山号は富士山。康永二年(一三四三)創立。開山は日代。興門派の本山を経て明治三二年(一八九九)本門宗の本山となり、のち独立。西山本門寺。

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日本歴史地名大系 「本門寺」の解説

本門寺
ほんもんじ

[現在地名]富士宮市北山

富士山の南西麓にある日蓮宗寺院。本尊は日蓮自筆の十界曼陀羅・宗祖御像(生御影尊)、山号は富士山。富士上方北山ふじかみかたきたやまのうち重須おもすに所在したので、重須寺・富士本門寺とも、また西山にしやま本門寺(現芝川町)創建以降は北山本門寺と通称された。富士門流(興門派)の富士五山の一。

永仁六年(一二九八)二月一五日の年紀をもつ棟札銘写(寺蔵)によれば、日興(白蓮阿闍梨)が願主となり、重須郷の地頭石河(石川)能忠と上野うえの郷の地頭南条時光とが大施主となって、小泉こいずみと上野の法華講衆の協力により、日蓮聖人御影堂・本化垂迹天照大神宮・法華本門寺根源の三堂を造営したという。宗祖日蓮の十七年忌にあたる永仁六年仏涅槃の日の二月一五日に法華経本門の教えに立脚した根源(原初)の寺として創建されたとみられ、理念実現のために僧侶の養成機関として重須談所を設立、学頭が学生の教育を行ったという(静岡県史)。日興は正和五年(一三一六)閏一〇月二〇日、重須談所において「三位房竜象房問答記」を書写している(「三位房竜象房問答記奥書」北山本門寺蔵)。正中二年(一三二五)一一月一三日、石川妙源(能忠)から寺地を一円不入地として永代寄進されている(「石川妙源寄進状」西山本門寺文書)。この寺地は康永三年(一三四四)四月二一日、能忠の息実忠から再寄進されている(「石川実忠寄進状」北山本門寺文書)。元徳二年(一三三〇)二月一五日、日興は御影堂において弟子日妙に当寺重宝の日蓮以来の血脈を与え(「日興譲状写」古文書記興門雑記)、同四年二月一五日には改めて付法弟子として本六人・新六人を定め、日代を法流の正嫡とし日蓮自筆の文書等を譲っている(「日興置文写」西山本門寺由緒書)


本門寺
ほんもんじ

[現在地名]三野町下高瀬

高瀬たかせ川の中流右岸にある。日蓮正宗。高永山と号し本尊は板曼荼羅。通称高瀬大坊、単に大坊ともいい、大御坊・高瀬郷法華堂などともよばれていた(文安三年「定書」本門寺文書など)。高永山略縁起によれば、正応二年(一二八九)甲州の住人秋山孫次郎泰忠(法名日高)大石たいせき(現静岡県富士宮市)日興に帰依し、弟子の寂日坊日華を招いて那珂なか(現丸亀市)に方八町の伽藍を造営、久遠くおん院と号した。


本門寺
ほんもんじ

[現在地名]大畑町大畑 東町

ひがし町にある。究竟山と号し、法華宗。本尊は十界曼陀羅。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「本(門カ)庵 田名部善宗寺支配」とあり、藩政期末と思われる寺社修験本末支配之記(内史略)に現寺名でみえる。元禄一三年(一七〇〇)田名部たなぶ(現むつ市)善宗ぜんそう寺四世日進の弟子日柔の草創と伝え(新撰陸奥国誌)、宝永元年(一七〇四)大坂の廻船問屋天王寺屋弥右衛門が堂宇を建立寄進したという(下北半嶋史)

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改訂新版 世界大百科事典 「本門寺」の意味・わかりやすい解説

本門寺 (ほんもんじ)

東京都大田区にある日蓮宗の大本山。山号は長栄山。通称を池上本門寺という。日蓮示寂の地に建てられた寺院。すでに日蓮示寂以前に建立されたと伝えるが,その確証はない。日蓮は1282年(弘安5)病身を常陸の温泉で療養すべく甲斐身延山を下りるが,病状が進んでこれを果たせず,武蔵池上郷在住の信奉者池上宗仲の館に滞在,ここで没した。おそらく,池上氏の館内にあった法華堂を,日蓮示寂の場として寺院化していったものと考えられる。日蓮の直弟日朗も池上氏と親しく,日蓮の七年忌のころには別当と称しているところからすれば,この堂宇の主管者であったであろう。一方,日朗は,鎌倉比企谷(ひきがやつ)の房舎を寺院化した長興山妙本寺に在住,これを弘通(ぐつう)と門弟育成の拠点としたので,本門・妙本両寺を主管したことになり,日朗以後も両寺一貫首(かんず)(住持)制がとられて近世にいたる。本門寺も日蓮示寂の霊場寺院として多くの末寺を抱え,日朗の弟子日伝による下総平賀の長谷山本土寺,妙本寺とともに,日朗門流=比企谷門流の中心である三長三本山の一つとして重きをなし,その教線を房総半島に伸張した。徳川家康の江戸開府により,江戸に近い本門寺に貫首が常住するようになっていっそう発展した。家康の保護や加藤清正徳川秀忠の乳母岡部局,前田利家の側室寿福院らの援助もあって堂塔が建立された。近世初頭京都で起こった日蓮教団における受不施・不受不施の論争や対立は東国でも起こり,その中心の一人に本門寺16世日樹がいた。1630年(寛永7)日樹は受不施派が占有した身延久遠寺の日暹(につせん)らと論争(身池対論)して敗れ,他の不受派の人々とともに流謫された。この結果,本門・妙本両寺は受不施派の代表者日遠の主管するところになったが,両寺の末寺はこのころ160余ヵ寺であった。17世紀後半には僧侶の教育機関として本門寺塔頭(たつちゆう)院家の照栄院に南谷(なんごく)檀林が開設され,学徒が参集した。照栄院をはじめとする塔頭も19世紀初頭には24を数える。日蓮の忌日10月13日に修する法会が御会式(おえしき)で,本門寺の御会式には講中により万灯(まんどう)がくり出され,多くの参詣者や見物人を集める。第2次大戦で五重塔重要文化財)など一部を除いて堂塔の大半が焼失したが,その後復興された。祖師堂には日蓮聖人座像(重要文化財)が安置されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「本門寺」の意味・わかりやすい解説

本門寺
ほんもんじ

東京都大田区池上本町にある日蓮(にちれん)宗大本山。四大本山の一つ。山号は長栄山。通称を池上本門寺という。1276年(建治2)池上宗仲の邸内の持仏堂を、宗長・宗仲の兄弟が法華(ほっけ)堂(いまの大坊(だいぼう))に改めたのが起源で、82年(弘安5)9月持病を治療するために身延(みのぶ)山を下りた日蓮はここに滞留して長栄山本門寺と命名したのが開基。日蓮は同年10月13日ここで入滅した。1309年(延慶2)日朗が池上本門寺、鎌倉比企谷(ひきがやつ)妙本寺を日輪に、下総(しもうさ)国平賀(ひらが)(千葉県松戸市)の本土寺を日伝に譲ってから、74代日慎が1941年(昭和16)に比企谷にも専任住職を置くまでは池上、比企の両寺は一主制であった。45年5月の第二次世界大戦の空襲で日蓮真筆遺文、日蓮木像、総門、五重塔(国重要文化財)、経蔵、荼毘(だび)所を除いて焼失したが、1964年(昭和39)大堂を建立、その後、本殿、仁王門、御廟(ごびょう)所などを復興した。10月12日夜に行われる御会式(おえしき)には、徹夜の説法があり、信者は万灯(まんどう)を掲げ、団扇(うちわ)太鼓を鳴らして参拝する。

[浅井円道]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「本門寺」の解説

本門寺
ほんもんじ

東京都大田区にある日蓮宗大本山。長栄山大国院と号す。1288年(正応元)日浄(にちじょう)・日持(にちじ)が日蓮の七年忌にその座像を造立したことに始まる。大施主は日蓮終焉の地池上の池上氏。以後,池上氏をはじめ,武蔵国蒲田・上田,上総国狩野の有力武士団の庇護で発展。鎌倉比企谷(ひきがやつ)妙本寺とともに日朗門流の2大拠点で,貫首(かんしゅ)は両寺を兼ねたため比企谷門流ともよばれる。近世初めには徳川家康とその側室養珠院の保護をうけた。受・不受論争では,日樹の頃は関東不受派の中核だったが,1630年(寛永7)受派の身延(みのぶ)久遠寺に敗れた結果,受派に転じた。日遠の入寺以後,久遠寺につぐ全国的教団となる。日蓮上人坐像・日蓮真蹟「兄弟抄」は,ともに重文。

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百科事典マイペディア 「本門寺」の意味・わかりやすい解説

本門寺【ほんもんじ】

東京都大田区池上にある日蓮宗本山。日蓮が1282年に没した池上宗仲の館を1291年寺院とし,1317年日朗が伽藍(がらん)を営んだ。江戸時代には徳川家康・秀忠の外護,加藤清正の祖師堂寄進などがある。1710年全焼。徳川吉宗の外護により復興。例年10月12,13日の御会式(おえしき)は盛大。→会式
→関連項目日蓮宗

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本門寺」の意味・わかりやすい解説

本門寺
ほんもんじ

東京都大田区池上本町にある日蓮宗の大本山。山号は長栄山大国院。通称は池上本門寺。日蓮入寂の霊跡として有名。日蓮入寂ののち池上宗仲が本寺を創建し,のち日朗が伽藍を営んだ。江戸時代には徳川家康,秀忠らの保護を受けて栄えた。たびたび火災にあったがその都度復興されており,慶長 12 (1607) 年建立の五重塔が残っている。また 10月 11,12,13日のお会式 (→会式 ) は有名。

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旺文社日本史事典 三訂版 「本門寺」の解説

本門寺
ほんもんじ

東京都大田区池上にある日蓮宗大本山
日蓮に帰依した鎌倉幕府の工匠池上兄弟が1283〜84年ころ創建。日蓮入滅の地として崇敬が集まったが,江戸初期に不受不施派となって幕府の圧迫をうけた。その後諸大名や歴代将軍の保護をうけ栄えたが,第二次世界大戦で多くを焼失した。

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デジタル大辞泉プラス 「本門寺」の解説

本門寺〔東京都〕

東京都大田区にある寺院。日蓮宗大本山。山号は長栄山。1282年の日蓮上人入滅の地。池上宗仲が寄進した土地につくられたことから「池上本門寺」ともいう。五重塔、宝塔は国の重要文化財に指定。

本門寺〔静岡県〕

静岡県富士宮市にある寺院。日蓮宗の霊跡寺院で、北山本門寺、重須(おもす)本門寺とも呼ばれる。山号は富士山。1298年、日蓮門下の日興が創建。日蓮宗七大本山のひとつ。

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事典・日本の観光資源 「本門寺」の解説

本門寺

(東京都大田区)
日蓮宗四大本山」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の本門寺の言及

【大石寺】より

…日興は日蓮没(1282)後甲斐国身延の日蓮の廟所を守っていたが,日蓮生前からの檀越(だんおつ)で身延の地を日蓮に提供した波木井(はきい)実長の信仰のあり方を否定して,1288年(正応1)身延を離れて駿河に移り,日蓮以来の檀越南条時光の支援を得て,90年富士郡上条大石ヶ原に大石寺を創建した。日興はさらに98年(永仁6)同郡重須(おもす)に本門寺を開創,ここに重須談所を開設して弟子の育成に努めた。大石寺はこの本門寺とともに,日興門流(富士門流)の二大拠点の一つ。…

【御会式】より

…御影供(みえいく),御影講(みえいこう)ともいうが,とくに〈御命講(おめいこう)〉(大御影供がなまってオメイクとなる)と称して,弘法大師忌の御影供と区別している。日蓮入寂の地である東京都大田区池上の本門寺と,杉並区堀ノ内の妙法寺の御会式はもっとも盛んである。本門寺の御会式(10月11日から3日間)には,夜,花で飾った万灯を押し立て,団扇(うちわ)太鼓を打ち鳴らし,題目を唱えた信者が群参する。…

【日朗】より

…82年(弘安5)日蓮は本弟子として6人(六老僧)を指定したが,日朗もその一人に加えられた。日蓮の信奉者であった武蔵池上の池上氏と親しく,日蓮は池上氏の館で没したが,この地にやがて本門寺が創建され,日朗はこれを主管して,鎌倉比企谷(ひきがやつ)の妙本寺とともに,東国に師の教えを広める拠点とした。弟子の育成にも努め,人材を輩出させた。…

※「本門寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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