富士山の南西麓にある日蓮宗寺院。本尊は日蓮自筆の十界曼陀羅・宗祖御像(生御影尊)、山号は富士山。
永仁六年(一二九八)二月一五日の年紀をもつ棟札銘写(寺蔵)によれば、日興(白蓮阿闍梨)が願主となり、重須郷の地頭石河(石川)能忠と
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東京都大田区にある日蓮宗の大本山。山号は長栄山。通称を池上本門寺という。日蓮示寂の地に建てられた寺院。すでに日蓮示寂以前に建立されたと伝えるが,その確証はない。日蓮は1282年(弘安5)病身を常陸の温泉で療養すべく甲斐身延山を下りるが,病状が進んでこれを果たせず,武蔵池上郷在住の信奉者池上宗仲の館に滞在,ここで没した。おそらく,池上氏の館内にあった法華堂を,日蓮示寂の場として寺院化していったものと考えられる。日蓮の直弟日朗も池上氏と親しく,日蓮の七年忌のころには別当と称しているところからすれば,この堂宇の主管者であったであろう。一方,日朗は,鎌倉比企谷(ひきがやつ)の房舎を寺院化した長興山妙本寺に在住,これを弘通(ぐつう)と門弟育成の拠点としたので,本門・妙本両寺を主管したことになり,日朗以後も両寺一貫首(かんず)(住持)制がとられて近世にいたる。本門寺も日蓮示寂の霊場寺院として多くの末寺を抱え,日朗の弟子日伝による下総平賀の長谷山本土寺,妙本寺とともに,日朗門流=比企谷門流の中心である三長三本山の一つとして重きをなし,その教線を房総半島に伸張した。徳川家康の江戸開府により,江戸に近い本門寺に貫首が常住するようになっていっそう発展した。家康の保護や加藤清正,徳川秀忠の乳母岡部局,前田利家の側室寿福院らの援助もあって堂塔が建立された。近世初頭京都で起こった日蓮教団における受不施・不受不施の論争や対立は東国でも起こり,その中心の一人に本門寺16世日樹がいた。1630年(寛永7)日樹は受不施派が占有した身延久遠寺の日暹(につせん)らと論争(身池対論)して敗れ,他の不受派の人々とともに流謫された。この結果,本門・妙本両寺は受不施派の代表者日遠の主管するところになったが,両寺の末寺はこのころ160余ヵ寺であった。17世紀後半には僧侶の教育機関として本門寺塔頭(たつちゆう)院家の照栄院に南谷(なんごく)檀林が開設され,学徒が参集した。照栄院をはじめとする塔頭も19世紀初頭には24を数える。日蓮の忌日10月13日に修する法会が御会式(おえしき)で,本門寺の御会式には講中により万灯(まんどう)がくり出され,多くの参詣者や見物人を集める。第2次大戦で五重塔(重要文化財)など一部を除いて堂塔の大半が焼失したが,その後復興された。祖師堂には日蓮聖人座像(重要文化財)が安置されている。
執筆者:高木 豊
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東京都大田区池上本町にある日蓮(にちれん)宗大本山。四大本山の一つ。山号は長栄山。通称を池上本門寺という。1276年(建治2)池上宗仲の邸内の持仏堂を、宗長・宗仲の兄弟が法華(ほっけ)堂(いまの大坊(だいぼう))に改めたのが起源で、82年(弘安5)9月持病を治療するために身延(みのぶ)山を下りた日蓮はここに滞留して長栄山本門寺と命名したのが開基。日蓮は同年10月13日ここで入滅した。1309年(延慶2)日朗が池上本門寺、鎌倉比企谷(ひきがやつ)妙本寺を日輪に、下総(しもうさ)国平賀(ひらが)(千葉県松戸市)の本土寺を日伝に譲ってから、74代日慎が1941年(昭和16)に比企谷にも専任住職を置くまでは池上、比企の両寺は一主制であった。45年5月の第二次世界大戦の空襲で日蓮真筆遺文、日蓮木像、総門、五重塔(国重要文化財)、経蔵、荼毘(だび)所を除いて焼失したが、1964年(昭和39)大堂を建立、その後、本殿、仁王門、御廟(ごびょう)所などを復興した。10月12日夜に行われる御会式(おえしき)には、徹夜の説法があり、信者は万灯(まんどう)を掲げ、団扇(うちわ)太鼓を鳴らして参拝する。
[浅井円道]
東京都大田区にある日蓮宗大本山。長栄山大国院と号す。1288年(正応元)日浄(にちじょう)・日持(にちじ)が日蓮の七年忌にその座像を造立したことに始まる。大施主は日蓮終焉の地池上の池上氏。以後,池上氏をはじめ,武蔵国蒲田・上田,上総国狩野の有力武士団の庇護で発展。鎌倉比企谷(ひきがやつ)妙本寺とともに日朗門流の2大拠点で,貫首(かんしゅ)は両寺を兼ねたため比企谷門流ともよばれる。近世初めには徳川家康とその側室養珠院の保護をうけた。受・不受論争では,日樹の頃は関東不受派の中核だったが,1630年(寛永7)受派の身延(みのぶ)久遠寺に敗れた結果,受派に転じた。日遠の入寺以後,久遠寺につぐ全国的教団となる。日蓮上人坐像・日蓮真蹟「兄弟抄」は,ともに重文。
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…日興は日蓮没(1282)後甲斐国身延の日蓮の廟所を守っていたが,日蓮生前からの檀越(だんおつ)で身延の地を日蓮に提供した波木井(はきい)実長の信仰のあり方を否定して,1288年(正応1)身延を離れて駿河に移り,日蓮以来の檀越南条時光の支援を得て,90年富士郡上条大石ヶ原に大石寺を創建した。日興はさらに98年(永仁6)同郡重須(おもす)に本門寺を開創,ここに重須談所を開設して弟子の育成に努めた。大石寺はこの本門寺とともに,日興門流(富士門流)の二大拠点の一つ。…
…御影供(みえいく),御影講(みえいこう)ともいうが,とくに〈御命講(おめいこう)〉(大御影供がなまってオメイクとなる)と称して,弘法大師忌の御影供と区別している。日蓮入寂の地である東京都大田区池上の本門寺と,杉並区堀ノ内の妙法寺の御会式はもっとも盛んである。本門寺の御会式(10月11日から3日間)には,夜,花で飾った万灯を押し立て,団扇(うちわ)太鼓を打ち鳴らし,題目を唱えた信者が群参する。…
…82年(弘安5)日蓮は本弟子として6人(六老僧)を指定したが,日朗もその一人に加えられた。日蓮の信奉者であった武蔵池上の池上氏と親しく,日蓮は池上氏の館で没したが,この地にやがて本門寺が創建され,日朗はこれを主管して,鎌倉比企谷(ひきがやつ)の妙本寺とともに,東国に師の教えを広める拠点とした。弟子の育成にも努め,人材を輩出させた。…
※「本門寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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