平安時代橘(たちばな)氏のための大学別曹(べっそう)。学官院とも書く。嵯峨(さが)天皇の皇后橘嘉智子(かちこ)が兄の右大臣氏公(うじきみ)(783―848。薨伝(こうでん)では弟)と図って、承和(じょうわ)(834~848)年中に、右京四条の北、西大宮の西にあった淳和(じゅんな)院の中に学舎を開いて、橘氏出身者に経書を読み習わせた。964年(康保1)好古(よしふる)が藤原氏の勧学院に準じて、大学別曹とすることを願い許された。橘氏出身の学生が寄宿し、蔵書で学び、大学に通った。橘氏の不振により衰え、別当職も橘氏の氏長者(うじのちょうじゃ)から九条家に移った。まもなく廃止されたらしく、1147年(久安3)後白河(ごしらかわ)法皇がこの院の再興を命じたときには、その地は耕田になっていたという。しかし、学館院別当職と学館院領とは中世まで存続していた。
[大塚徳郎 2017年9月19日]
『桃裕行著『上代学制の研究』(1947・目黒書店)』
平安時代の橘氏の子弟のための教育施設。学官院,学宦院とも記す。檀林皇后橘嘉智子が弟の右大臣橘氏公(うじきみ)とはかって建てたもので,一族の大学生の寄宿勉学のために,承和年間(834-848)の末年ごろ設立したと思われる。場所は右京二条西大宮辺であったというが,その規模や活動の状況は不明である。その後,橘氏は衰えたので,学館院が大学寮付属の寄宿施設として公認され,大学別曹となったのもはるかに遅れて964年(康保1)のことであった。その後も橘氏はふるわず,学館院もいつしか廃滅したようで,1147年(久安3)にその再興の議が起こったときには,その跡地はすべて田になっていたといい,結局再興しなかったらしい。ただし大学別曹の権利として諸氏出身者が年1人諸国の掾(じよう)に任官する三院の年挙(ねんこ)の慣例は残り,また学館院別当の職名と若干の学館院領とは,中世にも存続していた。
執筆者:土田 直鎮
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学宦院・学官院とも。橘氏の氏院(うじのいん)。嵯峨太皇太后橘嘉智子(たちばなのかちこ)と右大臣橘氏公(うじきみ)の姉弟が,847年(承和14)以前に橘氏の学生(がくしょう)のために創立し,964年(康保元)橘好古(よしふる)らの奏状で大学別曹として公認された。所在は平安京右京3条1坊16町という。橘氏の学生は学館院に寄宿し,大学に登校して授業をうけ,各種の任官試験をうけたり,年挙(ねんきょ)によったりして官界に入った。職員には別当以下があり,橘氏一門から寄付された荘園・封戸(ふこ)などを財源として運用したのであろう。1147年(久安3)にはすでに荒廃しており,同年に復興計画がたてられたが中止となったらしい。学館院別当の職,年挙,学館院領荘園は中世まで存続した。
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…大学寮の南に近接して設けられたものは,大学寮南曹とも呼ばれた。大学別曹には,和気氏の弘文院,藤原氏の勧学院,橘氏の学館院,源氏など王氏の奨学院がある。別当,知院事などの職員が置かれ,いずれも各氏族の財源によって運営された。…
※「学館院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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