日本大百科全書(ニッポニカ) 「宇文融」の意味・わかりやすい解説
宇文融
うぶんゆう
(?―729)
中国、唐の政治家。京兆(けいちょう)万年(陝西(せんせい)省西安)の人。北周の宗室宇文氏の後裔(こうえい)で、融はその家柄によって官界に入ったらしい。彼の行政手腕を認めた旧上司の源乾曜(げんけんよう)が宰相に昇格すると、融は監察御史(かんさつぎょし)に抜擢(ばってき)された。早速721年正月には、逃戸(とうこ)(逃亡民)の激増に対する処置を上奏し、宇文融の括戸(かっこ)として知られる政策を担当した。この括戸政策を遂行するため、723年に勾当租庸地税兼覆囚使(こうとうそようちぜいけんふくしゅうし)、翌年に勧農使に任命された。短期間に80余万の客戸(きゃっこ)と広い土地を得た功績によって累進を重ね、729年には宰相にまでなった。しかし、わずか100日で宰相の地位を追われ、厳州に配流される途中、熱病にかかって死去した。
[礪波 護]