中国で,租庸調に代わる正税(せいぜい)として780年(建中1)に制定された税法。唐初の正税は租庸調・戸税・地税など,いずれも固定的な定額税で,国家の歳入は課税の対象たる丁・田・戸の数によって自動的に決まり,したがって支出はこの収入に合わせて調節せねばならず,国家財政は量入制出(入るを量りて出づるを制す)の体制をとっていた。正税のほかに,戸内の資産・丁男の多寡に応じて臨時に財物を配徴する科配(科率(かりつ)ともいう)があり,臨時の出費の補塡に用いられていたが,中央財政に占める比重は大きくはなかった。安史の乱(755-763)が勃発して戦火が各地に波及し,兵乱鎮圧のために藩鎮が中国内地に列置されると,弾力性を欠く量入制出の税財制の行きづまりは,にわかに露呈した。財政支出は激増したが正税収入は民戸の流亡,籍帳の紊乱(びんらん)によってかえって激減し,中央政府も藩鎮も臨時的な科配を常用拡大して経費を調達しなければならなかった。こうして目前の必要に迫られるままに次々に新たな名目の科配が加えられ,常徴化して,〈科斂の名は凡そ数百〉といわれるまでになり,一方,徴税の実務を担当する州県司は,この事態に対処して,経験的に年間に配徴される正税科配の総額を見積ってこれを夏秋の収穫期に一括併徴し,中央政府や藩鎮の徴発を受けるごとに,その銭物を供出する,という便法を講ずるようになり,租庸調制は完全に崩壊した。
780年に制定された両税法は,この現状を単一の税制に整えたもので,現行の正税科配を両税一目に統合整理し,税額を銭数で表示し,量出制入の原則に従って,国家に必要な税額を,資産の多寡によって,夏・秋の収穫について徴取する,という特色をもっていた。戸内の資産に対して課税される結果,土戸(本籍居住者)・客戸(本籍地外居住者),官戸・百姓の別なく,資産ある者はすべて居住地で課税を受けることになった。また税目が両税一本に統合された結果,中央地方の経費はすべて両税収入によらねばならなくなり,両税収入を県費(留県)・州費(留州)・藩費(留使,送使ともいう)・中央費(上供)に分かつ分収制が施行された。両税額を銭数で表示したのは,各戸の税額を算定したり税収を政府諸機関に配分するのに,この方法が便利であったからである。銅銭の流通は銭納制を維持できるほどには普及しておらず,徴税の際は銭額に相当する粟稲布絹等による折納が大幅に行われていた。被課税資産は郷村では耕地,都市では家屋土地で,耕地は田・地の別と肥瘠によって,家屋土地は賃貸料の高低を見て,税額が評定されていた。量出制入による税額の算定は,初め3年ごとに,ついで5年ごとに行うものとされたが,留県・留州・留使・上供それぞれに基準額が設けられていて,安易な予算の膨張は許されなかった。分収制の施行は軍閥勢力として発展しつつあった藩鎮の活動に財政面から制約を加えるものであったから,強藩の抵抗を招き,その徹底は容易ではなかった。
執筆者:草野 靖
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中国の唐代から明(みん)代にかけて行われた税法。8世紀の中ごろ、すでに戸税銭や麦税などを夏税、秋税として、夏秋両期に徴収し、両税と称していた。780年にこれを体系化し、中国税制史上の一大改革として登場したのが、楊炎(ようえん)(727―81)の建議による両税法である。8世紀には唐の律令制支配は動揺し、対人均等現物主義の租庸調制は崩れ、安史の乱でまったく破綻(はたん)した。財政の逼迫(ひっぱく)は、従来の戸税の銭額を引き上げ、耕地に青苗銭、地頭銭を課するなど雑多な新税を設けたが、狡猾(こうかつ)な地主や富商は脱税を謀り、官僚は私腹を肥やし、藩鎮は輸税を拒み、中小の農民は没落、流亡し、歳入の確保は期待しえなかった。
両税法はこの現実に対応するもので、そのおもな内容は以下のとおりである。(1)各郷村はその現住戸を税役負担者とする。(2)各戸の資産を九等に分け、それに応じて現銭(銅銭)を徴収(従来の戸税に相当)。(3)所有耕地面積に応じてムギ、アワ、イネなどの生産物を徴収(田租に相当)。(4)夏秋両期に徴収。夏税(生産物としては夏ムギ、絹綿(まわた)など)は6月まで、秋税(同じくアワ、イネ、一部の絹綿など)は11月まで納入。(5)商人からはその居住地で売上高の30分の1を徴収。(6)資産の評価は3年ごとに行う。
当時、華北では夏ムギの耕作が普及し、江南では稲作が進展し、養蚕も盛んになって、夏秋両期徴収はこれに適合し、かつ年2回徴収と単純化し、原則として歳出を計って予算をたてるなどの優れた点があり、明代に一条鞭法(いちじょうべんぽう)が成立するまで、中国税制の根幹をなした。しかし、両税のほか青苗銭は残存し、ときに布帛(ふはく)、アワ、ムギなどを安価に見積もって両税銭の代納を強制し、そのほか、塩、茶などの専売税を増大させて民衆を苦しめた。他方、資産や耕地の多少に応じて課税したことは、いわば土地私有を公認したことであり、両税銭、青苗銭の徴収、塩、茶などの専売策は、農村にまで貨幣経済を浸透させ、貧富の差はいよいよ拡大し、大土地所有制が展開し新興地主層が台頭してきた。こうして唐の貴族官僚社会は崩れ去るのである。
[松井秀一]
『松井秀一著『両税法の成立とその展開』(『岩波講座 世界歴史6 古代6』所収・1971・岩波書店)』▽『船越泰次「唐代両税法における斛斗の徴科と両税銭の折糴・折納問題――両税法の課税体系に関連して」(『東洋史研究』31巻4号所収・1973・東洋史研究会)』
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唐の中期以後,均田制および租庸調,雑徭(ざつよう)の制度の維持が困難となり,その対策として780年宰相楊炎(ようえん)が創始した新税法。均田制では丁男の労働力を均等と考えて均額賦課を行うが,また租庸調以外に雑多な税目が生じた。両税法では,単税主義,夏秋2回の徴収,資産への累進課税,銭納原則,現住地課税主義などの原則に新しい意義があり,藩鎮(はんちん)を押え唐朝を再興する意図があった。両税法はその後事実上農村対象の土地税と化し,宋,元,明朝に受け継がれたが,商品流通と貨幣経済の発展により,その内容が複雑化したため,一条鞭法(いちじょうべんぽう)の改革が行われた。
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…第五琦と劉晏の2人によって完成された塩の専売法によって,国家財政は充実し,専売収入はやがて政府の全収入の半分を占めるにいたる(専売)。また780年には,楊炎の提案により,租庸調が廃止され,新たに両税法が始まった。両税法は,本籍地に居住するしないにかかわらず,現在耕作している農民の土地所有を認め,土地の面積や生産力に応じて,夏と秋の2回,銅銭で税を納めさせるという,画期的な新法であった。…
※「両税法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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