江戸末期から明治初期にかけて活躍した化学技術者。天保(てんぽう)5年10月15日、尾張(おわり)藩の100石取武士御本丸番神谷半右衛門義重(よししげ)の三男に生まれ、幼名は銀次郎重行(しげゆき)。16歳のころ、姓を神谷氏の本姓とされる宇都宮に、名を小金次と改め、砲術を西洋流砲術家上田帯刀(たてわき)(1809―1863)に学ぶ。舎密(せいみ)学(化学)を宇田川榕菴(ようあん)の『舎密開宗(かいそう)』により独習、さらに蘭学(らんがく)を尾州石河藩(1万石)の家臣大脇道助に学ぶ。1857年(安政4)脱藩し、俗名を鉱之進、実名を義綱と改め、江戸に上った。洋学者で砲術家でもあった江川太郎左衛門(英龍)や、伊東修理大夫祐帰(すけより)(1855―1894)、勝麟太郎(りんたろう)(海舟(かいしゅう))らの家に出入りし、大砲鋳造のための化学分析や火薬製造、電池づくりなどを行ううちに、1861年(文久元)、勝に推されて幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の精煉(せいれん)方に出役(五人扶持(ぶち))、翌1862年8月、洋書調所教授手伝(十五人扶持)となって化学を研究、教育した。1865年(慶応1)に彼の提案で精煉方は「化学所」と改められた。明治維新後、三郎と改名し、1869年(明治2)、新政府の開成学校中助教、1870年大学大助教となり大阪理学所へ派遣され、1871年文部大助教、1872年工部省に移って1877年工部権(ごんの)大技長、1882年工部大技長となり、1884年退官した。この間、1874年に工部省深川工作分局で日本最初のセメント製造に成功したほか、大阪造幣局にて炭酸ソーダ製造、また製藍(せいらん)法、酒醸法の改良、耐火れんが製造、製鉄、紙やすり製造を指導するなど、日本化学技術開発の先駆をなした。しかしながらセメント降灰などの公害対策には消極的であった。妻は貞(てい)(陸軍薬剤官大沢昌督の長女)。子はなかった。自伝『宇都宮氏経歴談』(交詢(こうじゅん)社編・汲古会発行・1903)がある。親友に柳河春三(やながわしゅんさん)、福沢諭吉らがおり、諭吉の子、一太郎(1863―1938)の妻緯都は宇都宮三郎夫人の実妹。明治35年7月23日、東京にて没。墓は愛知県豊田(とよた)市畝部(うねべ)西の幸福寺にある。
[道家達將]
幕末から明治期にかけての応用化学とその起業の先駆者.天保5年10月15日生まれ.尾張藩士神谷義重の三男.16~17歳のころ,宇都宮と改めた.通称は鉱之進,明治期に三郎と称した.尾張藩の上田帯刀に西洋砲術を学んだ後,江戸に出てさらに砲術とその化学(火薬,地金分析など)を実習し,幕府の大砲鋳造の方法や地金,火薬などの改良に貢献した.1860年幕府教育機関の藩書調所精錬方に出役し,翌年教授手伝となり,化学分析や製造化学の指導をした.1864年には精錬方を“化学方”と改称するよう進言し,官ではじめて“化学”の名称を採用させた.明治政府下で南校の小教授となり化学を指導した.1872年工部省に移り,工作分局でセメント,耐火物の製造,大阪造幣局で炭酸ソーダの製造などの起業に尽力し,さらに工部技長として勧業政策遂行にまい進した.1884年工部大技長を辞した後は,草創の民間企業の顧問的役割を果たした.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
(山下愛子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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