柳河春三(読み)やながわしゅんさん

精選版 日本国語大辞典 「柳河春三」の意味・読み・例文・類語

やながわ‐しゅんさん【柳河春三】

  1. 幕末洋学者名古屋の人。はじめ西村辰助といった。伊藤圭介蘭学を学ぶ。開成所頭取となり、海外知識の輸入普及に努めた。慶応三年(一八六七)日本で最初の月刊雑誌西洋雑誌」を、翌年には日本人の手による最初の新聞中外新聞」を創刊した。のち大学少博士として学校制度調査に当たった。著に「洋学指針」など。天保三~明治三年(一八三二‐七〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「柳河春三」の意味・わかりやすい解説

柳河春三
やながわしゅんさん
(1832―1870)

幕末の洋学者。日本における新聞・雑誌の創始者。名は春蔭(はるかげ)、号は柳屋主人など多数。天保(てんぽう)3年2月25日名古屋生まれ。初め西村辰助(たつすけ)といったが、のちに良三と改め、さらに1856年(安政3)柳河春三と改称した。漢学を学んだのち、尾張(おわり)の藩医伊藤圭介(けいすけ)のもとで蘭(らん)医学を習得。江戸に出て紀州藩に仕えた。洋学者として評判高く、1864年(元治1)幕府の開成所教授職に抜擢(ばってき)された。開成所では職務として外国新聞を翻訳していたが、しだいに新聞・雑誌に興味をもち、同僚と会訳社を組織し、回覧雑誌を編集。また伝聞したニュースを集め『新聞薈叢(わいそう)』を出した。これらの経験をもとに『西洋雑誌』(1867)『中外新聞』(1868)を発行し、日本のジャーナリズム活動に先駆的役割を果たした。1868年(慶応4)3月開成所頭取(とうどり)となる。明治維新後、『中外新聞』は佐幕派とみなされ、発行禁止となる。1869年(明治2)3月から一時再刊したが、1870年廃刊。1869年7月大学少博士に任ぜられたが、10月免官となる。明治3年2月20日死去。

[有山輝雄]

『湖北社編・刊『柳河春三資料』全2冊(1985)』『小野秀雄稿『柳河春三』(『三代言論人集 1』所収・1962・時事通信社)』

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百科事典マイペディア 「柳河春三」の意味・わかりやすい解説

柳河春三【やながわしゅんさん】

幕末の洋学者。日本における新聞・雑誌の創始者。名古屋の人。柳川とも書く。蘭学・英学・フランス学に通じ,蕃書調所を経て開成所に出仕。1868年頭取となった。維新後も引き続き開成学校に出仕,1869年大学小博士。1867年《西洋雑誌》,1868年《中外新聞》を創刊。日本近代の新聞・雑誌創成期に大きな足跡を残した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「柳河春三」の意味・わかりやすい解説

柳河春三
やながわしゅんさん

[生]天保3(1832).2.25. 名古屋
[没]明治3(1870).2.20.
幕末から明治初期にかけての洋学者,ジャーナリスト。もとの名を西村辰助 (良三) といったが,安政3 (1856) 年改名。姓は柳川とも書く。伊藤圭介に蘭学を学び,同4年江戸へ出て『洋学指針蘭学部』『洋算用法』を出版。元治1 (64) 年幕府の開成所教授職となり,慶応3 (67) 年『西洋雑誌』,同4年2月『中外新聞』を創刊,これらは日本における新聞,雑誌の先駆となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「柳河春三」の解説

柳河春三 やながわ-しゅんさん

1832-1870 幕末-明治時代の洋学者。
天保(てんぽう)3年2月25日生まれ。伊藤圭介,上田帯刀(たてわき)にまなび,元治(げんじ)元年開成所教授。日本初の雑誌「西洋雑誌」を慶応3年,日本人の手による民間初の新聞「中外新聞」を4年創刊した。明治3年2月20日死去。39歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。本姓は栗本。名は春蔭。号は臥孟,楊江。著作に「洋算用法」,訳書に「写真鏡図説」など。

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