玄界灘に注ぐ
沖津宮のある沖ノ島は対馬を経て朝鮮半島南部へ向かう航路上に位置し、古来より海上交通を担う海人に崇敬を受けたことが推測される。沖ノ島の古代祭祀跡は昭和二九年(一九五四)から同四六年まで三次の発掘調査がなされ、山頂から崩落した巨岩上や岩陰、巨岩前の露天などで四世紀後半から九世紀前半まで四期に区分される祭祀が行われたことが明らかになった。祭祀遺物は銅鏡・金製指輪・金銅製馬具・金銅製竜頭・金属製雛形品・奈良三彩小壺など一二万点以上で国宝、国の重要文化財に指定されており、伝筑前宗像神社沖津宮祭祀遺跡出土品(国指定重要文化財)とともに神宝館に収蔵・展示されている。大和政権からの奉献品と考えられる西域・中国・朝鮮半島などからの渡来品が多いことから、沖ノ島は一般に「海の正倉院」と称されるが、四世紀後半には外交権を掌握した大和政権から航海安全、外交にかかわる神として崇敬を受けたことがわかる。やがて九州北岸より五〇キロ以上離れた玄界灘の孤島沖ノ島での祭祀を便宜的に執り行うため、沖ノ島を遥拝する場所として
「日本書紀」神代上第六段本文によると、天照大神が素戔嗚尊との誓約により生んだのが田心姫(一書第三は田霧姫。「古事記」は多紀理毘売、またの名を奥津島比売)・湍津姫(「古事記」は多岐都比売)・市杵島姫(一書第一・第三では瀛津島姫。「古事記」は市寸島比売、またの名を狭依毘売)の三女神である。祭神名・表記は記紀編纂段階では一定しないが、「文徳実録」天安二年(八五八)閏二月二六日条、「三代実録」貞観元年(八五九)正月二七日条・同年二月三〇日条ではいずれも「田心姫神・湍津姫神・市杵嶋姫神」で、九世紀半ばには神代紀第六段本文の祭神名・表記に定まった。同書によると三女神は「葦原中国の宇佐嶋」(現大分県の宇佐。沖ノ島とする説もある)に降下して「海の北の道の中」(北部九州から朝鮮半島への海路の道中)に鎮座し、「天孫を助け奉りて、天孫の為に祭られよ」との天照大神の命令を受け、「道主貴」(道の主の貴神)とよばれたとされる(第六段一書第一・一書第三)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
福岡県宗像市田島に鎮座。田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)を祀(まつ)る。正確には、九州と朝鮮半島との間の玄界灘(げんかいなだ)の孤島・沖島(おきのしま)(沖ノ島)に鎮座する沖津宮に田心姫神を、海岸近くの大島に鎮座する中津宮に湍津姫神を、陸地の宗像市田島に鎮座する辺津宮(へつみや)に市杵島姫神を祀り、この三宮を総称して宗像大社という。この宗像三女神(宗像神)は天照大神(あまてらすおおみかみ)の誓約(うけい)により生(な)る神で、天孫降臨に先だち、「汝三神(いましみはしらのかみ)、宜(よろ)しく道中(みちのなか)に降居(くだりま)して、天孫(あめみまご)を助け奉(まつ)り、天孫に祭(いつ)かれよ」、すなわち三女神よ、九州北辺の地に下り、その地で皇室を助けるとともに、皇室より厚く祀られよ、との勅を受けたと『日本書紀』に記されている。また神功(じんぐう)皇后のいわゆる「三韓征伐」に霊威を現されたと伝承されて、古くより朝廷の厚い崇敬を受け、大化改新の国郡制の成立とともに宗像郡は神郡とされた。神主宗像氏が神郡の大領を兼ね、天武(てんむ)天皇の後宮にその宗像氏徳善(とくせん)の女(むすめ)、尼子娘(あまこのいらつめ)が入り、高市皇子(たけちのみこ)を出産するなど皇室との関係も深く、807年(大同2)に封戸(ふこ)74戸が寄せられ、840年(承和7)従(じゅ)五位下に叙されたあと位を進めて、859年(貞観1)正二位となる。延喜(えんぎ)の制で名神大社、979年(天元2)には大宮司職(しき)が太政(だいじょう)官より定められている。古く遷都ごとに賢所(かしこどころ)とともに当社の分霊が奉斎されたが、1954年(昭和29)以降の沖ノ島学術調査で、鏡、武器、工具、装身具など精巧を極めた祭祀(さいし)神宝5万余点が発見され、4、5世紀ごろの当社に対する深い崇敬が再確認された(出土品のほとんどは国宝と国の重要文化財に指定されている)。律令(りつりょう)体制崩壊後も多くの社領荘園(しょうえん)を有し、中世宗像大宮司は鎌倉御家人(ごけにん)として北九州で勢力を振るい、蒙古(もうこ)襲来のとき沿岸防備に活躍、のち戦国時代にも活動したが、1586年(天正14)氏貞(うじさだ)に継嗣(けいし)なく絶えた。以後筑前(ちくぜん)領主によりよく維持され、明治の制で官幣大社。例祭は、沖津宮、中津宮の神迎えを宗像七浦の漁船総出で行う海上神幸で知られる秋季大祭10月1~3日のほか、特殊神事が多い。なお、沖島は現在も一般人の渡航は原則として許されず、一木一草も島外に持ち出してはならぬ掟(おきて)があり、島内での忌みことばを当番神職はよく守り続けてきている。
[鎌田純一]
2017年(平成29)、宗像大社の沖津宮(沖島)、中津宮、辺津宮などは「『神宿る島』―宗像・沖ノ島と関連遺産群」の構成資産(全8件)の一部として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部 2017年7月19日]
福岡県宗像市田島の辺津宮(へつみや)(祭神は市杵島姫(いちきしまひめ)神),および同市に属する二海島,すなわち大島の中津宮(湍津姫(たぎつひめ)神)と沖島(おきのしま)の沖津宮(田心姫(たごりひめ)神)の三宮を宗像大社という。祭神の三女神については古来異説があり一定しないが,天照(あまてらす)大神と素戔嗚(すさのお)尊の誓約(うけい)の際に生まれたと伝えられている。鎮座地が九州本土から朝鮮に至る海上交通の要衝に位置していたため,古くは海上交通者や漁業従事者などの信仰を受けていた。近年,数度に及ぶ沖島の発掘調査により発見された古墳時代の祭祀に関する豊富な資料は,このような原始祭祀に関連したものであると考えられる。
大化改新後,全国に国郡制がしかれると,宗像郡は神郡として同社神領に定められ,宗像氏は代々神主を世襲する一方,同郡の郡司をも兼帯した。平安時代に入り,その社格はますます高まり,藤原純友の乱平定後,神階は正一位へ進み,延喜の制では名神大社に列せられている。また神功皇后の〈三韓征伐〉に神験があったというので,国家に重大事があるごとに勅使(幣使)が発遣された。平安中期以降,律令制の崩壊が進行する中で,同社の社領荘園はしだいに増大し,12世紀前半には鳥羽院を本家と仰ぐ皇室領の一つとなっている。源平交替期に源氏に荷担した功により,鎌倉初期には,没官領であるにもかかわらず宗像氏実が,源頼朝より地頭職,大宮司職を安堵され御家人の列に加わった。当時,宗像社が,いわゆる玄界灘の広範な海上支配権を掌握し,海外と深い交渉を有していたことは,同社に現存する阿弥陀経石や石造狛犬(こまいぬ)(いずれも重要文化財)および大宮司家が宋商張氏,王氏と婚姻を結んでいた事実などからも知られる。続く室町時代も中国・朝鮮貿易は依然,活発であり,1412年(応永19)から約100年間,朝鮮との直接通商が続けられていた。室町末期から戦国時代にかけて,宗像地方は,中国地方から南下する大内氏と,九州内部から北上する大友氏勢力等の接触点として争乱のちまたと化したが,近世に至り,筑前の領主に任じた小早川隆景の崇敬を得,1590年(天正18)には拝殿が再建された。明治維新の後,1901年には官幣大社となっている。なお,同社を中心とする宗像信仰は全国的な普及を示しているが,中でも京都御所付近(上京区京都御苑内)に鎮座する旧府社宗像神社などはとくに著名なものの一つであろう。
→沖島
執筆者:上田 純一
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「延喜式」は宗像神社。福岡県宗像市沖ノ島に沖津(おきつ)宮,同市大島に中津宮,同市田島に辺津(へつ)宮が鎮座。式内社。旧官幣大社。祭神は沖津宮が田心姫(たごりひめ)神,中津宮が湍津姫(たぎつひめ)神,辺津宮が市杵島姫(いちきしまひめ)神で,宗像三神と称する。この地域の海人を支配した宗像氏の祖神を祭ったものとされるが,朝鮮半島との交通の要路にあたり,早くから大和王権の祭祀にくみこまれていたらしい。律令制下には宗像郡が神郡とされ,889年(寛平元)従一位。神主宗像氏はのち大宮司となり,中世には武士化し御家人として活動したが,戦国期末に宗家が絶え,近世に庶流の深田千秋家により復興された。例祭は沖津宮・中津宮が旧暦9月15日,辺津宮が10月1~3日。「海の正倉院」とよばれる沖ノ島の沖津宮祭祀遺跡出土品は国宝。辺津宮の本殿・拝殿は重文。ほかに宗像神社文書などを所蔵。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…対馬暖流の影響で暖かく,亜熱帯植物の北限(北緯34゜15′)でビロウ,ヒゼンマユミ,オオタニワタリなどの原生林(天)が茂り,オオミズナギドリが生息する。朝鮮半島への航路の要衝で宗像大社の沖津宮が鎮座し,4~9世紀の祭祀遺跡も著名である。全島神域で女人禁制が守られ,1921年開設の灯台が73年無人化されてからは2週間交代の神官1人だけが常住し,上陸の際はすべてみそぎをする。…
…筑前国宗像郡の宗像大社(現,福岡県宗像郡玄海町)の大宮司家。筑紫の豪族で大和朝廷と交渉のあった宗像君の子孫とされる。…
※「宗像大社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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