宗像神社
むなかたじんじや
[現在地名]桜井市大字外山小字宮の谷
鳥見山北麓に鎮座。多紀理毘売命・市寸嶋比売命・田寸津比売命を祀る。旧村社。「大和志」は「延喜式」神名帳の城上郡「宗像神社三座並名神大、月次」に比定し、「今称春日」と記す。
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
〔祭神・創祀〕
式内宗像神社は寛平五年(八九三)一〇月二九日の太政官符(類聚三代格)によれば、宗像大社(現福岡県大島村・玄海町)と同神で、氏人高階真人忠峯の祖高市皇子が神舎を修理したとある。高市皇子は胸形君徳善の娘尼子娘と天武天皇との間に生れており(日本書紀)、天武朝頃に胸形君の一族が本居地筑前国の氏神を勧請したものと考えられている。また元慶五年(八八一)一〇月一六日の太政官符(類聚三代格)には「坐大和国城上郡登美山」とある。同四年三月二七日には官社に列せられた(三代実録)。
〔沿革〕
天武朝より氏人の奉る神宝・園地も多く、高階真人が累代社務をつかさどっていたが、時を経るにしたがって神宝の紛失や祭事の闕怠があったので、しばしば祟りがあった。
宗像神社
むなかたじんじや
社前南西を荒川が流れ、緩やかな斜面に鎮座する。鎮守の森はかつて老杉も茂っていたが、昭和四一年(一九六六)の台風で倒壊、その後植林が行われた。旧村社で、主祭神は多紀理比売命・狭依比売命・多岐津比売命。幕末までは聖天宮と称して新寄居村地内に所在していたが、明治初年の神仏分離に際し別当寺の極楽寺より分離。当社の由緒は、大宝元年(七〇一)荒川の氾濫を鎮めるため、筑前宗像社(現福岡県大島村)の分霊を移したものという(大里郡神社誌)。
宗像神社
むなかたじんじや
[現在地名]田平町里免
里免の中央部に鎮座。祭神は多紀理比売命・多紀都比売命・市杵島比売命。旧県社。筑前宗像神社の分霊を勧請したと伝え、「三代実録」貞観一三年(八七一)四月三日条にみえる従五位下の神階を受けた「肥前国宗形天神」は当社の可能性がある。同一五年従五位上とされ(同書同年九月一六日条)、元慶四年(八八〇)官社に預かったという。建久三年(一一九二)源披が源頼朝より宇野御厨庄の地頭に任じられた際、当社を修復したという(「宗像神社由来記」社蔵文書)。
宗像神社
むなかたじんじや
[現在地名]小浜市西長町
小松原の東部、弁天川右岸に鎮座する。田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神の三神を祀る。旧郷社。「若州管内社寺由緒記」によれば、創建時期は不詳であるが、小松原の守護神で、往古は現在の地にあった。しかし先主小浜藩主京極氏がその地を城内に組込むため、小松原弁財天を今の堀屋敷に退去させた。しかし漁師の家などが混じっていたため数回延焼したので、火災をおそれて再び現在地に移したという。
宗像神社
むなかたじんじや
[現在地名]小倉南区上曾根五丁目
近世には宗像天王宮などとみえる。祭神は多紀理毘売命・市寸島比売命・多岐都比売命・事代主命。旧郷社。大治三年(一一二八)筑前国宗像神社より分霊を勧請したという。直接分霊を勧請した数社の内の一つとされる。慶長一一年(一六〇六)細川忠興が新田開墾のとき神殿などを営繕。元和六年(一六二〇)忠興が間島沖で暴風に遭い、宗像の神に祈って無事帰城できたため、当社に参詣したという。
宗像神社
むなかたじんじや
[現在地名]新居浜市八雲町
尻無川下流東部低地社叢のなかに鎮座する。祭神は筑紫宗像社より勧請した田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神のいわゆる宗像三女神。天保一三年(一八四二)の「西条誌」に「胸肩明神 往時大社にて、馬場も長く、新須賀川迄通り三百二十間余あり、今は百十間に縮まる。(中略)胸肩屋敷・化粧田・治部屋敷等の名あるは皆昔神領にて有りしといふ」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の宗像神社の言及
【海人】より
…三島神社の祭神大山祇(おおやまつみ)神は,《古事記》によれば,薩摩半島笠佐岬付近にまつられたが,早く摂津淀川の中流の三島,伊予の大三島,さらに伊豆の白浜のち三島に移された。宗像系による宗像神社の分布も津々浦々に及び,住吉の神は長門,摂津,播磨などのほか全国的に広く勧請された。 長い歴史過程のなかで,海士と海女の分布にはかなりの変化があったと考えられる。…
※「宗像神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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