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宜湾朝保 ぎわん ちょうほ

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

宜湾朝保 ぎわん-ちょうほ

1823-1876 琉球の政治家。
尚灝(しょうこう)王20年3月5日生まれ。1862年三司官となり尚泰(しょうたい)王を補佐。1872年維新慶賀の副使として東京にゆき,国王を「琉球藩王」とする詔勅をもちかえり,親清国(しんこく)派から「売国奴」と非難されて三司官を辞任。桂園派歌人としても知られた。尚泰王29年8月6日死去。54歳。唐名は向有恒(しょう-ゆうこう)。号は松風斎。歌集に「松風集」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

宜湾朝保

没年:尚泰29.8.6(1876.9.23)
生年:尚【外6BB4】20.3.5(1823.4.15)
近世末期琉球の政治家,歌人。唐名は向有恒。明治政府が樹立し,廃藩置県が行われると,維新慶賀副使として上京,琉球藩王を受けて,琉球王国の日本への編入の道を開く。琉球の名門の家に生まれ,父親は幼時に死去したものの,やはり三司官(本土の家老などに相当する首里王府の要職)だった。本人も尚泰15(1862)年から死の前年まで三司官を務める。歌を,香川景樹の高弟で薩摩藩士八田知紀に師事し,『沖縄集』(尚泰23年刊),『沖縄集二編』(同29年刊)を編集刊行するなど大いに歌道を興す。家集に『松風集』がある。

(池宮正治)

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世界大百科事典 第2版の解説

ぎわんちょうほ【宜湾朝保】

1823‐76
琉球王国末期の政治家,歌人。門閥の出で1862年に最高の政治的ポスト三司官に就任した。やがて明治政府の発足とともに始まる琉球所属問題を迎え,琉球の政局は混乱をきわめたが,政府の〈琉球藩〉への名称替え指示を受諾した責任を問われ失脚し,失意のうちに死去。和歌,琉歌にも造詣が深く,多くの作品を残しており,また,《沖縄集》など重要な歌集の編者としても知られる。【高良 倉吉】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

宜湾朝保
ぎわんちょうほ
(1823―1875)

琉球(りゅうきゅう)王国末期の政治家、歌人。唐名を向有恒(しょうゆうこう)という。首里の門閥の出で、1859年(安政6)王国最高の政治的地位三司官(さんしかん)に就任した。明治維新となり明治政府が成立すると、琉球の帰属問題がクローズアップされたが、72年(明治5)政府はまず王国を廃して琉球藩の設置を宣言した。この施策を受諾した宜湾は琉球内の反明治政府派によりその政治責任を追及され失脚し、沖縄県の設置(1879)をみぬまま失意のうちに悶死(もんし)した。歌人としても多くの作品を残し、『朝保集』『松風集』などの作品集のほか、『沖縄集』の編者としても知られる。「いにしへの人にまさりて嬉(うれ)しきはこの大御代(みよ)に逢へるなりけり」は琉球藩設置を受諾した際の心境を即席でうたったものである。[高良倉吉]

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