宝生寺(読み)ほうしようじ

日本歴史地名大系 「宝生寺」の解説

宝生寺
ほうしようじ

[現在地名]南区堀ノ内町一丁目

根岸ねぎし台地の西北端が堀割ほりわり川によって孤立した小丘上、常緑樹の森を背景に建つ。青竜山宝金剛院と号し、高野山真言宗本尊は大日如来坐像。承安年間(一一七一―七五)に覚清が草創したと伝える(元禄六年三月二八日「宝生寺書上」当寺蔵)。康応元年(一三八九)八月三日、民部律師覚尊石川いしかわ村の畠一反を坊地として行有(平子氏か)より与えられた(「行有坊地充行状」県史三)。覚尊は応永二〇年(一四一三)一二月一一日、権大僧都快尊より石河熊野権現別当に(「権大僧都快尊別当職補任状」同書)、翌二一年五月一三日、同じく快尊より「熊野堂領武州久良郡平子郷内石河村宝生寺別当」に補任されている(「権大僧都快尊宝生寺別当職補任状写」同書)

文明八年(一四七六)九月一五日、河内兼吉は成願じようがん院と乗蓮じようれん坊との論争地である「石河村堀之内談所之向彦九郎山」をどちらかの一方に渡付することはできないとの理由で、宝生寺へ寄進している(「河内兼吉山寄進状」県史三)


宝生寺
ほうしようじ

[現在地名]八王子市西寺方町

川口かわぐち丘陵先端部の南斜面麓にある。大幡山蓮華院と号し、本尊は不動明王。真言宗智山派。鎌倉末期に創建された大幡おおはた観音堂の別当寺として、応永三二年(一四二五)に創建されたという。享禄三年(一五三〇)八月一五日の大義だいぎ寺八幡像銘(武蔵史料銘記集)に「大幡山宝生寺第九世法印俊広」とある。永禄一〇年(一五六七)一一月一二日の北条氏照判物(宝生寺文書)によれば、「大幡宝生寺」は新造伽藍滝山たきやま城下移転を言い渡されているが、宝生寺自体の移転なのか、伽藍建物のみの徴発なのか明らかでない。


宝生寺
ほうしようじ

[現在地名]南国市前浜

しも街道と県道植野―前浜線が交差する北東側にある。高野山真言宗。無量山と号し、本尊は阿弥陀如来。もと本堂ほんどう寺と称し、前浜まえのはま村の真言宗正興しようこう寺の末寺で、田村山極楽院と号した。寺伝によると天文(一五三二―五五)頃、正興寺の一三世尭快が隠居寺として建立、開基となったという。「南路志」は「旧号極楽寺」とし、「何之比本堂寺と唱来候哉、(中略)宝永四年大潮入堂寺流失旧記無之、其後先住栄雅堂寺建立、近年瑞長今之寺建立也」と記し、境内には堂一宇・持仏堂・住吉社があったという。


宝生寺
ほうしようじ

[現在地名]長岡市白鳥町

くろ川右岸の丘陵縁辺に白山神社に隣接してある。真言宗豊山派、金亀山と号し、本尊阿弥陀如来。寺伝によると、文明(一四六九―八七)頃、僧元果なる者が白鳥しろとり庄の鎮守白山神社の社僧となり、境内に一宇を草創したのが始まりという。二七世快尊は元文五年(一七四〇)紀州高野山宝亀ほうき院政与より法流を相伝し、中興となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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