室町院(読み)むろまちいん

改訂新版 世界大百科事典 「室町院」の意味・わかりやすい解説

室町院 (むろまちいん)
生没年:1228-1300(安貞2-正安2)

鎌倉時代の女院(によいん)。後堀河天皇の第1女。母は持明院家行の女。名は暉子。1240年(仁治1)内親王,43年(寛元1)准三后となり院号を定む。46年出家し法名を妙法覚という。叔母にあたる後高倉院第1女の式乾門院から膨大な荘園群を譲与された。

承久の乱(1221)のさい,幕府に没収された後鳥羽上皇の所領の一部。後高倉院に幕府が返したのち式乾門院に伝領された。この荘園群は金剛勝院領,六条院領,七条院領,後高倉院法華堂領等を含む100余ヵ所からなっていた。後嵯峨上皇は宗尊親王を式乾門院の猶子とし,まず室町院の一期(いちご)すなわち女院存命中のみの所領とし,そののちは宗尊に伝えることとした。しかし宗尊が関東の将軍となったので,一部を除き室町院の所領となった。後嵯峨は亀山上皇を室町院の猶子として,これを伝えさせようとしたが,室町院はむしろ伏見上皇にこの荘園群を伝領することとしており,1300年女院が死ぬと,大覚寺統と持明院統との間で激しい相論がおこった。亀山はこの所領を伝領した宗尊の女瑞子(土御門姫君)を永嘉門院として後宇多上皇の妃に迎え,室町院領を獲得しようとし,伏見は室町院の遺志をたてにとってこれと争った。1302年(乾元1)幕府は両統の間で室町院領を中分することを申し入れ,和談が成立,伏見側は75ヵ所(〈八代恒治所蔵文書〉),亀山側は53ヵ所(〈竹内文平所蔵文書〉)を得た。伏見はこれを花園天皇に処分したが,亀山のあとをうけた後宇多・後醍醐はしばしば花園の管領下にある荘園に干渉,紛争がたえなかった。さらに23年(元亨3)永嘉門院は宗尊に譲られた荘園の権利を主張,幕府に使者を遣わしたが,翌年,幕府の申入れにより,両統の間の中分が再確認された。その後,大覚寺統系の所領は建武新政の崩壊とともに消滅していくが,持明院統側の所領は花園から光厳上皇に譲られ,さらに花園の子直仁,崇光の子伏見宮栄仁に伝領されていった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「室町院」の意味・わかりやすい解説

室町院
むろまちいん
(1228―1300)

後堀河(ごほりかわ)天皇の第一皇女。母は中納言藤原家行の女(むすめ)。名は暉子。1240年(仁治1)内親王、43年(寛元1)准三后(じゅさんごう)、ついで室町院の院号宣下(せんげ)を受け、46年19歳で落飾、法名は妙法覚。49年(建長1)叔母の式乾門院(しきけんもんいん)より膨大な御領を譲られ、これを室町院領と称した。のちこの御領は大覚寺(だいかくじ)、持明院(じみょういん)両統で争われ、折半された。

[飯倉晴武]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「室町院」の解説

室町院 むろまちいん

1228-1300 鎌倉時代,後堀河天皇の第1皇女。
安貞2年生まれ。母は持明院家行の娘。延応2年内親王,寛元元年准三宮(じゅさんぐう)となり院号をうける。4年19歳で出家した。叔母の式乾(しきけん)門院から膨大な荘園群をうけつぎ,没後この室町院領は大覚寺統,持明院統の間で帰属があらそわれ折半された。正安(しょうあん)2年5月3日死去。73歳。名は暉子(きし)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「室町院」の意味・わかりやすい解説

室町院
むろまちいん

[生]安貞2(1228)
[没]正安2(1300).5.3.
後堀河天皇の第1皇女。名,暉子。母は中納言藤原家行の娘。仁治1 (1240) 年内親王宣下,寛元1 (43) 年三宮に准じられ,次いで院号宣下。同4年落飾。

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