宮井村(読み)みやいむら

日本歴史地名大系 「宮井村」の解説

宮井村
みやいむら

[現在地名]徳島市多家良町たからちよう

本庄ほんじよう村の南、北流する勝浦川左岸にあり、南に中津峰なかつみね山を負い、北部山裾を八多はた川が北東流する。東方の字上宝かみだから・中宝・下宝は「和名抄」記載の勝浦郡託羅たから郷の遺称地とされる。乾元二年(一三〇三)六月一六日の日付をもつ郡賀山庄北俣那伊瀬権現託宣記(稲飯神社文書)が応永二三年(一四一六)四月二日に「勝浦庄内宮居内中津峯金剛峯寺」で書写されている。金剛峯寺は現在の如意輪によいりん寺のことと考えられている。同寺に近い南西の八多川支流金谷かなや川上流の中津峰山では観応二年(一三五一)一〇月一三日以降一二月までの間に合戦が行われた(観応三年五月二〇日「飯尾吉連等軍忠状写」碩田叢史)

正保国絵図には宮井村とあり、高八二九石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方六〇七石余・畠方二二二石余、旱損芝山・はへ山と注記される。


宮井村
みやいむら

[現在地名]蒲生町宮井

外原とのばら村の東、北西流する日野川左岸の平地に位置する。集落内を南北に御巡見ごじゆんけん道とよばれる道が走り、南は蒲生堂がもうどう村に通じた。またほぼ東西に八日市と甲賀郡下田しもだ(現甲西町)を結ぶ道が通る。集落南方の田中、天神森てんじんのもりの付近に宮井廃寺があり、古くは集落も同所付近にあったと伝える。慶長七年(一六〇二)「宮井村之内百四拾弐石八斗」などが旗本一色照直に与えられた(東京大学史料編纂所所蔵文書)


宮井村
みやいむら

[現在地名]豊岡市宮井

岩井いわい吉井よしいしよう三ヵ村の北西に位置し、奈佐なさ川が流れる。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文にみえる福田ふくだ庄下司兼公文・樋爪ひづめ庄公文・樋爪国領公文の宮井盛長の本貫地とみられる。江戸時代の領主の変遷は栃江とちえ村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高六八〇石余。延享元年(一七四四)の村明細帳(小谷家文書)では高六九一石余、小物成は茶役米二斗六升余・山役米一石七斗九升余・楮役米一斗七升余・刈畑役米四斗余・桑役銀一七四匁余、家数七一・人数三三七、鎮守は天満宮(現耳井神社)


宮井村
みやいむら

[現在地名]熊野川町宮井

四滝したき村の南、北山きたやま川と熊野川の合流地に位置し、村の南、熊野川右岸に小名音河おとががある。もとは西北の相須あいす村、北山川対岸の小船こぶね(現三重県南牟婁郡紀和町)とともに川合かわい村と称されたが、寛文六年(一六六六)に分れて三村となった(続風土記)。慶長検地高目録によれば川合村は村高一四六石余、小物成二・三三八石。敷屋組に属し、和歌山藩新宮領。延宝六年(一六七八)の郷帳によれば高三六石余(新宮藩御勘定方旧記「和歌山県史」所収)、近世後期の「新宮領分見聞記」は「水合村」と記し、家数二九とある。熊野川水運上の要地で、また付近一帯の新第三紀層(宮井層)には炭層が含まれ、良質の石炭が産出された。


宮井村
みやいむら

[現在地名]米沢市塩井町宮井しおいまちみやい

塩野しおの村の北東、東をまつ川、西を鬼面おもの川に挟まれた平地に立地。戦国期には上長井のうち。天文七年(一五三八)の段銭古帳によれば上長井庄「ミや井」から一二貫八〇〇文を納入、うち八五〇文は中館へ納めている。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、黒川五郎三郎が宮井のうち本沢十郎分(棟役・田銭免除で)を与えられ、大石備後が切田一千四〇〇刈を安堵されている。天正一五年(一五八七)の上長井段銭帳によれば、宮井から本段銭一一貫八〇〇文の三分の一から、富塚近江分・阿弥陀寺分・鯨岡図書分・小簗河氏分・遠藤文七分・元越坊分などを引いた一貫三五文が納入されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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