人形浄瑠璃,歌舞伎,歌謡などで心中(情死)を題材とした作品の一系統。心中を舞台化することは歌舞伎が早く,1683年(天和3),大坂の生玉で新町の遊女大和屋市之丞と呉服屋の御所(ごせ)の長右衛門が心中をとげた事件をすぐに大坂の嵐,荒木,大和屋の3座で舞台化,競演したのが最初とされている。以後,歌舞伎では,すくなくとも15種以上の心中物が,元禄時代(1688-1704)に上方を中心に上演されている。これらの心中事件は同時に歌謡にもうたわれ,《松の葉》(1703),《松の落葉》(1710)などに収められている。浄瑠璃では,元禄年代の末に上(揚)巻助六の情死を扱った《千日寺心中》などの作品が生まれていたが,1703年に近松門左衛門の世話浄瑠璃の初作《曾根崎心中》が上演されると,浄瑠璃だけではなく,歌舞伎でも歌謡でも空前の心中物ブームが訪れた。近松自身も《心中二枚絵草紙》《卯月紅葉》《心中重井筒(かさねいづつ)》《心中万年草》とたてつづけに心中物の秀作を発表,ライバル関係にあった紀海音も《難波橋心中》《梅田心中》《心中二ツ腹帯》などの作を発表した。歌舞伎の方でも,京坂で《鳥辺山心中》《助六心中紙子姿》《心中鬼門角》《好色四人枕》などの作品が世話狂言として上演され,その影響は宝永・正徳・享保(1704-36)ごろには江戸にも及び,はじめは時代物の二番目として組みこまれていたが,やがて宝暦・明和(1751-72)ごろには独立した世話狂言としても演じられるようになった。こうした心中物の流行に眼をつけた幕府は,22年(享保7)と23年につづけて心中物の禁止令を発し,心中事件の文芸化を禁じた。そのため,心中物は舞台から消え,心中の2字は作品の題名からけずられ,心中に出た男女も最後は救われるというような筋に書き改められた。寛保・延享・寛延(1741-51)ごろには心中の禁令もゆるみ,心中物がふたたび舞台化されるようになったが,元禄から享保初めの盛時をみることはなかった。
執筆者:諏訪 春雄
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浄瑠璃(じょうるり)・歌舞伎(かぶき)脚本の題材上の一大系統。世話物のなかで、心中、すなわち男女の情死事件に取材した作品をいう。1683年(天和3)5月17日、大坂の生玉(いくたま)で新町の遊女大和屋市之丞(やまとやいちのじょう)と呉服屋の御所(ごせ)の長右衛門が心中を遂げた事件を、大坂の嵐(あらし)三右衛門、荒木与次兵衛、大和屋甚兵衛の3座で脚色競演したのが最初とされる。以後、情死事件のたびに歌舞伎で脚色、歌謡にも歌われたが、人形浄瑠璃では1703年(元禄16)5月、竹本座で、お初徳兵衛の心中を扱った近松門左衛門の『曽根崎(そねざき)心中』が大好評を博して以来、大いに流行した。浄瑠璃から歌舞伎に書き換えられた作品も多く生まれたが、こうした流行は情死賛美の思想を誘う傾向もあり、享保(きょうほう)期(1716~36)には幕府が一時心中物の禁止令を発したため、のちには主人公が情死のまぎわに救われるという筋がつくられた。豊後節(ぶんごぶし)が流行してからは、その好題材になり、ことに新内(しんない)節には多く取り上げられた。歌舞伎の世話物には、情死に向かう最後の場を「道行(みちゆき)」として、浄瑠璃を使った舞踊劇に仕立てた脚本も多い。演劇・音曲を通じ心中物の題材で有名なのは、「お染久松」「小春治兵衛」「お千代半兵衛」「三勝半七(さんかつはんしち)」「お花半七」「お園六三(ろくさ)」「お半長右衛門」「浦里時次郎」など。一般に心中物の流行は、封建制度下の男女が社会の制約を死によって破り愛を貫くという構成に、当時の民衆が共感したからと考えられる。
[松井俊諭]
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