一中節(読み)いっちゅうぶし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

一中節
いっちゅうぶし

三味線音楽の一流派。古曲の一つ。始祖は京都の人1世都太夫一中岡本文弥文弥節松本治太夫治太夫節などを加味して,元禄 (1688~1703) 頃京都で一流を創始。4世以後一時中絶状態であったが,文化1 (1804) 年に5世が江戸で復興,のち天保 10 (1839) 年に2世菅野序遊菅野派を樹立,さらに嘉永2 (1849) 年に1世宇治紫文が宇治派を樹立したので,現在は,都,菅野,宇治の3派がある。しかし語り物は基本的に共通。1世都太夫一中の門弟に宮古路豊後掾があり,それから宮薗節常磐津節富本節清元節新内節などが派生しているため,近世三味線音楽の基本といってよい。一中節の特色は,上品で温雅重厚な節回しと発声にある。三味線は中棹を用い,重厚な音色を出す。代表曲は『辰巳の四季』『小春髪結』『尾上の雲賤機帯』『夕霞浅間嶽』『都見物左衛門』など。

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百科事典マイペディアの解説

一中節【いっちゅうぶし】

浄瑠璃の流派名。都太夫(みやこだゆう)一中〔1650-1724〕が18世紀初期ころに京都で始めたもの。京都の代表的浄瑠璃として流行したが,やがて江戸で発達し京坂では絶えた。京都趣味を残し,知識階級に愛好された。現在では古曲に属する。三味線は中棹(ちゅうざお)。
→関連項目古曲

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世界大百科事典 第2版の解説

いっちゅうぶし【一中節】

三味線音楽の一流派。初世都太夫一中が,元禄の末ごろ上方で語り出したもので,のち江戸に普及した。古浄瑠璃時代の語り物には長編のものが多かったが,その一部分,景事や道行などを,ウレイのかかった節で語り,またユリを巧みに用いたのが流行の原因と思われる。初期のころは歌舞伎の舞台に出演したが,まもなく離れ,限られた町人上流社会で伝承された。それだけに純粋性が保たれているといわれる。その後一時衰退したが,5世一中が再興,現在にいたっている。

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大辞林 第三版の解説

いっちゅうぶし【一中節】

浄瑠璃節の一種。京都で、都太夫一中が語り出したもの。元禄・宝永(1688~1711)頃上方で流行。初代の没後衰えたが江戸末期に再興し現在に至る。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

一中節
いっちゅうぶし

都太夫(みやこだゆう)一中(1650―1724)を始祖とする浄瑠璃(じょうるり)の流派名。現在は荻江(おぎえ)節、河東(かとう)節、宮薗(みやぞの)節とともに古曲の一つに数えられている。京都でおこり、宝永(ほうえい)・正徳(しょうとく)(1704~16)のころ栄えたが、しだいに衰退し、のち江戸に根づいて、お座敷芸として再興したもの。初世一中はもと京都本願寺派の明福寺住職で、1670年(寛文10)21歳のときに還俗(げんぞく)して須賀千朴(せんぼく)と号した。師匠は京都の都越後掾(えちごのじょう)、後の都万太夫である。一流樹立の時期は明らかでないが、都太夫一中を名のってから宝永・正徳のころ活躍し、1715~19年には江戸・市村座の芝居にも出演した。
 初世没後、実子若太夫が2世を相続。のち和泉掾(いずみのじょう)を受領し京(きょう)太夫和泉掾を名のった。ついで1734年(享保19)『夕霞浅間嶽(ゆうがすみあさまがたけ)』で大好評を博した都秀太夫千中(せんちゅう)が3世を継ぐ。4世は初世の娘婿金太夫三中(きんだゆうさんちゅう)(のち吾妻路宮古(あづまじみやこ)太夫と改名)が継いで、江戸に一中節を伝播(でんぱ)する功績を残したと伝えられるが、この3世と4世の襲名については三中が3世、千中が4世を継いだという異説もある。5世は本名千葉嘉六(かろく)(1760―1822)が継承し(1974年6月1日、日本演劇学会での竹内道敬(みちたか)の口頭発表、「5代目都一中について」によると千葉嘉六は7世で、5世は2世一中の孫ではないかとの推理がある)、河東節の三味線方山彦(やまびこ)新次郎(のちに菅野序遊(すがのじょゆう)と改名。1756―1823)と協力提携し、一中節の不振挽回(ばんかい)と復興に尽力した。
 初世序遊の実子、2世序遊(1784―1841)は、7世一中とたもとを分かって1839年(天保10)独立、一中節菅野派を樹立した。他方、2世序遊に学んだ勝田権左衛門は、一時都派に転じて一閑斎(いっかんさい)と改名し、さらに1849年(嘉永2)宇治紫文斎(うじしぶんさい)(1791―1858)を名のって一中節宇治派をたてた。こうして三派鼎立(ていりつ)の形となって都派は12世一中(常磐津文字蔵(ときわずもじぞう))、宇治派は7世紫文(しぶん)(梅津博布之(うめずひろふじ))を家元に、菅野派は家元制をとらず菅野会として現在に至るが、1950年(昭和25)一中節宗和会が結成されたのちに発展的解消した今日も、各派和合してそれぞれ一中節の保存育成に努めている。
 曲風については、一見素朴と思われるなかに典雅な渋い味わいがあり、上方(かみがた)の風韻もしのばれ、したがって豊後(ぶんご)系浄瑠璃やうた沢、小唄(こうた)の曲中で品のよい情調を描出するときには、一中節の旋律をしばしば用いることが作曲技法の一つの手段とされている。3派の特徴は、都ははでで節が細かく、菅野は古格を守って自然に語り、宇治は渋く上品ななかにも軽い味を備えているといわれている。[林喜代弘・守谷幸則]
『英十三著『一中節』(1956・邦楽の友社) ▽竹内道敬著「三代目宮古路一仲とその周辺」(『藝能史研究』49号所収・1975・藝能史研究会)』

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世界大百科事典内の一中節の言及

【舟の内】より

…邦楽の曲名。河東節と一中節の掛合曲。本名題《隅田川舟の内》。…

【文弥節】より

…文弥節を吸収したのは義太夫節で,《伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)》の〈政岡忠義の段〉の,〈忠と教える親鳥の〉は文弥節,《絵本太功記》十段目の〈涙に誠あらわせり〉は文弥オトシである。そのほか,山本角太夫(かくだゆう)の角太夫節も影響を受け,一中節も文弥の泣き節をとり入れたといわれ,新内節で使われるウレヒは,阿波太夫の影響といわれる。文弥節は義太夫の流行もあって,宝永(1704‐11)ころから急に衰退した。…

【都太夫一中】より

…一中節の家元名。都一中とも。…

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