一中節(読み)イッチュウブシ

デジタル大辞泉 「一中節」の意味・読み・例文・類語

いっちゅう‐ぶし【一中節】

浄瑠璃の流派の一。17世紀末に京都の都太夫一中が創始。初め上方で流行し、のち江戸で栄えた。都派のほか、分派の菅野派宇治派がある。

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精選版 日本国語大辞典 「一中節」の意味・読み・例文・類語

いっちゅう‐ぶし【一中節】

  1. 〘 名詞 〙 浄瑠璃節の流派の一つ。一七世紀末に、京都の都太夫(みやこだゆう)一中がはじめたといわれる。節回しがやわらかく洗練されていたので趣味人や上層階級に好まれ、江戸中期から末期に江戸を中心として栄えた。のち、この流派から豊後節が出、さらに常磐津、富本、清元、新内など軟派の浄瑠璃が派生した。都派のほか、菅野派、宇治派などの分派がある。
    1. [初出の実例]「小でっちが、一中(イッチウ)ぶしの川風に声もひろがる扇屋の」(出典:浄瑠璃・長町女腹切(1712頃)中)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「一中節」の意味・わかりやすい解説

一中節
いっちゅうぶし

都太夫(みやこだゆう)一中(1650―1724)を始祖とする浄瑠璃(じょうるり)の流派名。現在は荻江(おぎえ)節、河東(かとう)節、宮薗(みやぞの)節とともに古曲の一つに数えられている。京都でおこり、宝永(ほうえい)・正徳(しょうとく)(1704~16)のころ栄えたが、しだいに衰退し、のち江戸に根づいて、お座敷芸として再興したもの。初世一中はもと京都本願寺派の明福寺住職で、1670年(寛文10)21歳のときに還俗(げんぞく)して須賀千朴(せんぼく)と号した。師匠は京都の都越後掾(えちごのじょう)、後の都万太夫である。一流樹立の時期は明らかでないが、都太夫一中を名のってから宝永・正徳のころ活躍し、1715~19年には江戸・市村座の芝居にも出演した。

 初世没後、実子若太夫が2世を相続。のち和泉掾(いずみのじょう)を受領し京(きょう)太夫和泉掾を名のった。ついで1734年(享保19)『夕霞浅間嶽(ゆうがすみあさまがたけ)』で大好評を博した都秀太夫千中(せんちゅう)が3世を継ぐ。4世は初世の娘婿金太夫三中(きんだゆうさんちゅう)(のち吾妻路宮古(あづまじみやこ)太夫と改名)が継いで、江戸に一中節を伝播(でんぱ)する功績を残したと伝えられるが、この3世と4世の襲名については三中が3世、千中が4世を継いだという異説もある。5世は本名千葉嘉六(かろく)(1760―1822)が継承し(1974年6月1日、日本演劇学会での竹内道敬(みちたか)の口頭発表、「5代目都一中について」によると千葉嘉六は7世で、5世は2世一中の孫ではないかとの推理がある)、河東節三味線方山彦(やまびこ)新次郎(のちに菅野序遊(すがのじょゆう)と改名。1756―1823)と協力提携し、一中節の不振挽回(ばんかい)と復興に尽力した。

 初世序遊の実子、2世序遊(1784―1841)は、7世一中とたもとを分かって1839年(天保10)独立、一中節菅野派を樹立した。他方、2世序遊に学んだ勝田権左衛門は、一時都派に転じて一閑斎(いっかんさい)と改名し、さらに1849年(嘉永2)宇治紫文斎(うじしぶんさい)(1791―1858)を名のって一中節宇治派をたてた。こうして三派鼎立(ていりつ)の形となって都派は12世一中(常磐津文字蔵(ときわずもじぞう))、宇治派は7世紫文(しぶん)(梅津博布之(うめずひろふじ))を家元に、菅野派は家元制をとらず菅野会として現在に至るが、1950年(昭和25)一中節宗和会が結成されたのちに発展的解消した今日も、各派和合してそれぞれ一中節の保存育成に努めている。

 曲風については、一見素朴と思われるなかに典雅な渋い味わいがあり、上方(かみがた)の風韻もしのばれ、したがって豊後(ぶんご)系浄瑠璃やうた沢、小唄(こうた)の曲中で品のよい情調を描出するときには、一中節の旋律をしばしば用いることが作曲技法の一つの手段とされている。3派の特徴は、都ははでで節が細かく、菅野は古格を守って自然に語り、宇治は渋く上品ななかにも軽い味を備えているといわれている。

[林喜代弘・守谷幸則]

『英十三著『一中節』(1956・邦楽の友社)』『竹内道敬著「三代目宮古路一仲とその周辺」(『藝能史研究』49号所収・1975・藝能史研究会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「一中節」の意味・わかりやすい解説

一中節 (いっちゅうぶし)

三味線音楽の一流派。初世都太夫一中が,元禄の末ごろ上方で語り出したもので,のち江戸に普及した。古浄瑠璃時代の語り物には長編のものが多かったが,その一部分,景事や道行などを,ウレイのかかった節で語り,またユリを巧みに用いたのが流行の原因と思われる。初期のころは歌舞伎の舞台に出演したが,まもなく離れ,限られた町人上流社会で伝承された。それだけに純粋性が保たれているといわれる。その後一時衰退したが,5世一中が再興,現在にいたっている。その間,1839年(天保10)に菅野派が独立,さらに49年(嘉永2)に宇治派が独立して,もとの都派とともに現在3派がある。一中節の特色は格調高く,素朴閑雅なおもむきにある。三味線は中棹(ちゆうざお),皮は厚めのものをはり,撥(ばち)は大きい。弾き方はネリバチといい,糸をなでるような弾き方をする。音色は澄んだ音より,ドーンとした濁った音をよろこぶ。他の流派では,上品とか素朴な感じを出すとき,一中節の節を利用する。また一中節3派の特色をいえば,都は派手で,菅野は素朴,宇治は“はんなり”とした味がある。

 初世都一中の弟子に都半中があり,1722年(享保7)ごろ独立して宮古路国太夫半中と改め,さらに豊後掾(宮古路豊後掾)となった。その門から常磐津節,富本節,清元節,新内節,宮薗節などが生まれたので,それら豊後系浄瑠璃の祖の位置にある。

 代表曲としては,初世都一中に《辰巳(たつみ)の四季》《お夏笠物狂》《都見物左衛門》《椀久道行》《小町少将道行》など。2世都一中に《都若衆万歳》《信田妻(しのだづま)》など。都半中に《傾城(けいせい)三度笠》《丹波与作夢路の駒》《小春髪結》など。都千中に《家桜傾城姿》《尾上の雲賤機(しずはた)帯》《夕霞浅間嶽》など。5世都一中に《傾城浅間嶽》《松がさね》《松の羽衣》《吉原八景》などがある。そのほか明治以降にも,戦後にも新作があり,現行曲はおよそ100段以上ある。なお現在は一中節は古曲の一つとして,財団法人古曲会(1962成立)の一員でもある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「一中節」の意味・わかりやすい解説

一中節
いっちゅうぶし

三味線音楽の一流派。古曲の一つ。始祖は京都の人1世都太夫一中。岡本文弥の文弥節に松本治太夫の治太夫節などを加味して,元禄 (1688~1703) 頃京都で一流を創始。4世以後一時中絶状態であったが,文化1 (1804) 年に5世が江戸で復興,のち天保 10 (1839) 年に2世菅野序遊が菅野派を樹立,さらに嘉永2 (1849) 年に1世宇治紫文が宇治派を樹立したので,現在は,都,菅野,宇治の3派がある。しかし語り物は基本的に共通。1世都太夫一中の門弟に宮古路豊後掾があり,それから宮薗節常磐津節富本節清元節新内節などが派生しているため,近世三味線音楽の基本といってよい。一中節の特色は,上品で温雅重厚な節回しと発声にある。三味線は中棹を用い,重厚な音色を出す。代表曲は『辰巳の四季』『小春髪結』『尾上の雲賤機帯』『夕霞浅間嶽』『都見物左衛門』など。

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百科事典マイペディア 「一中節」の意味・わかりやすい解説

一中節【いっちゅうぶし】

浄瑠璃の流派名。都太夫(みやこだゆう)一中〔1650-1724〕が18世紀初期ころに京都で始めたもの。京都の代表的浄瑠璃として流行したが,やがて江戸で発達し京坂では絶えた。京都趣味を残し,知識階級に愛好された。現在では古曲に属する。三味線は中棹(ちゅうざお)。
→関連項目古曲

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「一中節」の解説

一中節
いっちゅうぶし

都(みやこ)太夫一中を始祖とする浄瑠璃の流派。享保頃,京都から江戸に流行した。一中が一流を樹立した時期は不詳。はじめ座敷芸であったらしいが,1706年(宝永3)大坂の片岡仁左衛門座で「京助六心中」を出語りしたのが芝居出演の初めという。その後江戸市村座に2回出演して評判をとり,江戸にも愛好者を広めた。彼の語り物の大部分は,道行・景事の類である。のち一中節は豊後節に押されるが5世まで続き,本流の都派から菅野・宇治が分脈して3派となる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「一中節」の解説

一中節
いっちゅうぶし

江戸中期におこった浄瑠璃節の一派
京都の都太夫一中が創始。義太夫節におされ,1718年江戸へ下り歌舞伎音楽となる。角太夫節・文弥節などを合わせた優美温雅な曲節であるが,豊後節の濃艶さに圧迫された。

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世界大百科事典(旧版)内の一中節の言及

【舟の内】より

…邦楽の曲名。河東節と一中節の掛合曲。本名題《隅田川舟の内》。…

【文弥節】より

…文弥節を吸収したのは義太夫節で,《伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)》の〈政岡忠義の段〉の,〈忠と教える親鳥の〉は文弥節,《絵本太功記》十段目の〈涙に誠あらわせり〉は文弥オトシである。そのほか,山本角太夫(かくだゆう)の角太夫節も影響を受け,一中節も文弥の泣き節をとり入れたといわれ,新内節で使われるウレヒは,阿波太夫の影響といわれる。文弥節は義太夫の流行もあって,宝永(1704‐11)ころから急に衰退した。…

【都太夫一中】より

…一中節の家元名。都一中とも。…

※「一中節」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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