一中節都派の家元名。略称都一中。現在まで12世を数えるが、初世がもっとも有名で、5世がこれに次ぐ。
[林喜代弘・守谷幸則]
(1650―1724)京都本願寺派明福寺の3世周意(しゅうい)の次男。幼名は恵俊(けいしゅん)。1670年(寛文10)還俗(げんぞく)して須賀千朴(せんぼく)と号する。都万太夫(都越後掾(えちごのじょう))に浄瑠璃(じょうるり)を習い、都太夫一中を名のって一派を興した。一中節を樹立した時期は不明。元来が座敷芸のため人形芝居とは無縁であったと思われる。1707年(宝永4)58歳のとき大坂の片岡仁左衛門(にざえもん)座の『京助六心中(きょうすけろくしんじゅう)』に初めて出演、その後15年(正徳5)より19年(享保4)まで、あわせて二度にわたる江戸下りを行い市村座に出勤した。これにより京坂だけでなく江戸に一中節が根付くことになった。斬髪(ざんぱつ)して十徳(じっとく)を着、白練(しろねり)の長袴をはき小刀を帯びて語る姿は評判をよんだものと思われる。代表曲に『辰巳(たつみ)の四季』『お夏笠物狂(おなつかさものぐるい)』『椀久末松山(わんきゅうすえのまつやま)』などがある。
[林喜代弘・守谷幸則]
生没年不詳。初世の実子で前名若太夫。初世没後に2世を襲名。初世の二度目の江戸下りに同行、1736年(元文1)ごろまで江戸で活躍した。のち京都に帰り、和泉掾(いずみのじょう)を受領し、京太夫一中、また京太夫和泉掾と称して芝居に出勤、延享(えんきょう)(1744~47)の末ごろ没したのではないかといわれている。
[林喜代弘・守谷幸則]
生没年不詳。1732年(享保17)ごろ江戸に下る。初世の弟子、都秀太夫千中(せんちゅう)として中村座、森田座などに出勤した。『夕霞浅間嶽(ゆうがすみあさまがたけ)』『家桜傾城姿(いえざくらけいせいすがた)』『尾上雲賤機帯(おのえのくもしずはたおび)』などを開曲(初演)した。宝暦(ほうれき)末(1750年代か)ころ3世を襲名。
[林喜代弘・守谷幸則]
生没年不詳。初世の婿、金太夫三中(きんだゆうさんちゅう)が吾妻路宮古(あづまじみやこ)太夫と改名し、その後3世没後に4世を相続したといわれている。4世は初世の江戸下りに同行、以来江戸に残り活躍した人で江戸に一中節を流布させた功労者。初世十寸見河東(ますみかとう)との掛合(かけあい)『角田川(すみだがわ)船の内』を作曲、門弟和中(わちゅう)の弟子の2世和中は名人といわれた富士田吉次(ふじたきちじ)(後の楓江(ふうこう))である。
[林喜代弘・守谷幸則]
(1760―1822)本名千葉嘉六(かろく)。上方(かみがた)より土産浄瑠璃18曲を携えて江戸に出て、中村座で鳥羽屋里長(とばやりちょう)の三味線で『傾城浅間(あさま)』を開曲した。声は美しいが小音であったため、評判は芳しくなかったという。その後江戸・吉原(よしわら)の河東節三味線弾き山彦(やまびこ)新次郎(後の菅野序遊(すがのじょゆう))の協力を得て、当時衰退していた一中節を再興した一大功労者。3世の孫、あるいは4世の弟子など諸説がある。『吉原八景』『松の羽衣(はごろも)』などが代表曲。
[林喜代弘・守谷幸則]
(?―1834)俗称大野万太。5世の弟子で2世千中を名のっていた。その妻の都一浜(いちはま)門下から後の都派の重鎮といわれた都一静(いちせい)(一清ともいう)、都以中(いちゅう)が出た。
[林喜代弘・守谷幸則]
生没年不詳。5世の弟子栄中(えいちゅう)。河六、または半中(はんちゅう)とも称していた。1847年(弘化4)襲名。素行が修まらず行方不明となった。一説には築地(つきじ)の寒さ橋(1970年に撤去された明石橋の別名)で行き倒れて死んだといわれている。仇名(あだな)は「お菰(こも)一中」。
[林喜代弘・守谷幸則]
生没年不詳。8世の実父千葉屋仙助。名跡(みょうせき)のみ襲名。芸には関係なく、襲名後まもなく没したという。
[林喜代弘・守谷幸則]
(1868―1928)本名伊東楳太郎(うめたろう)。三味線弾き都松次(まつじ)の孫で1881年(明治14)以中や一清の高弟一広(いちひろ)の斡旋(あっせん)で襲名。没後20年間家元空白期となる。
[林喜代弘・守谷幸則]
(1906―91)本名小林清子。10世の実子。前名仙卜(せんぼく)。1948年(昭和23)襲名。84年重要無形文化財保持者に認定。
[林喜代弘・守谷幸則]
(1952― )本名藤堂誠一郎。前名都仙卜。父は初世常磐津文字蔵(ときわずもじぞう)(斉樹)。12世は2世常磐津文字蔵と同一人物である。1992年(平成4)襲名。
[林喜代弘・守谷幸則]
一中節の家元名。都一中とも。現11世まであるが,初世と5世が有名。(1)初世(1650-1724・慶安3-享保9) 京都本願寺派明福寺3代住職の次男。本名恵俊。若くして音曲を好み,都越後掾の弟子となり須賀千朴を名のったが,元禄(1688-1704)末ごろ都太夫一中と改名して一中節を創始した。2度ほど江戸に下り,自流の宣伝に努めた。弟子に都国太夫半中があり,これがのちに宮古路豊後掾となった。(2)5世(1760-1822・宝暦10-文政5) 4世の子か。前名吾妻路宮古太夫。1781年(天明1)ごろ江戸に下り,92年(寛政4)5世をつぐ。河東節の三味線方3世山彦新次郎(のち初世菅野序遊)と組んで,すたれていた一中節を再興,古い曲を整理し,多くの新曲を作った。一中節の中興の恩人。(3)10世(1868-1928・明治1-昭和3) 本名伊藤楳(うめ)太郎。1881年10世をつぐ。89年日本演芸嬌風会委員,1907年東京音楽学校邦楽調査掛嘱託となり,楽譜の起稿に努めた。(4)11世(1906-91・明治39-平成3)10世の子。本名小林清子。母は都一梅。1935年に都千朴,48年11世をつぎ都一中を名のる。84年一中節三味線の重要無形文化財保持者各個指定(人間国宝)に認定。作曲作品に《雪まろげ》(久保田万太郎作詞,1953)などがある。
→一中節
執筆者:竹内 道敬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…三味線音楽の一流派。初世都太夫一中が,元禄の末ごろ上方で語り出したもので,のち江戸に普及した。古浄瑠璃時代の語り物には長編のものが多かったが,その一部分,景事や道行などを,ウレイのかかった節で語り,またユリを巧みに用いたのが流行の原因と思われる。…
※「都太夫一中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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