宮島村(読み)みやじまむら

日本歴史地名大系 「宮島村」の解説

宮島村
みやじまむら

[現在地名]富士市宮島

中丸なかまる村・川成島かわなりじま村の西に位置し、南は駿河湾に面する低地に立地。戦国時代から江戸初期までは、富士川の本流は川成島村と当村の間を流れていたとされる。五貫島ごかんじま村から鈴川すずかわ村へ至る中世東海道であった道が通る。元亀三年(一五七二)一二月一九日付武田信玄判物(小浜文書)に「宮島・萩島 壱貫弐百」とみえ、信玄が小浜景隆に与えている萩島はぎしまは当地近隣とみられるが、比定地は未詳。江戸時代の宮島村は加島新田開発によって成立。横割よこわり村の新田開発以後、同村が開き残した芝間を開いたという(寛保元年「横割村明細帳」西尾家文書)加島かじま宮島・宮島加島新田・宮島加島ともいう。元禄八年(一六九五)の富士川下流宮島村開発覚書(山崎家文書)によると、承応三年(一六五四)古郡文右衛門による改高七五石余、明暦元年(一六五五)同孫大夫による改でも同高、明暦二年・同三年の改高七六石余、その後の新開発により元禄八年の高七二五石余となる。


宮島村
みやのしまむら

[現在地名]川島町宮島

川島町の南西に位置する。村域は東流する吉野川の右岸沖積低地と、同川の川中島である善入寺ぜんにゆうじ島の南半を占める。宮ノ島村などとも記した。西は児島こじま村。かつて地内に浮島うきしま八幡宮を祀っていたことが(現在は川島の川島神社に移転合祀された)地名の由来と伝える。慶長二年(一五九七)の分限帳では林与右衛門(能勝)知行分のうちに宮島高一九二石余がみえる。正保国絵図では宮嶋村とあり、高は同じ。


宮島村
みやじまむら

[現在地名]板倉町宮島

別所べつしよ川が平野部に流れ出る扇状地の裾中央に位置し、東は四ッ屋よつや村、南は国川こくがわ村に接する。享徳二年(一四五三)一二月一二日の上杉家(房定)老臣連署奉書(村山氏文書)に「宮嶋」とみえ、守護房定は守護代長尾邦景・実景親子の追落しに際し、功のあった村山義隆を賞し、その子義実に高山修理亮の所領であった宮島と長塚ながつかを与えた。年月日未詳の高梨氏所領注文(高梨文書)によれば、当地は高梨氏の本領一七ヵ所のうちの一所であったが、同氏の支配を離れたため、守護代長尾為景から替りの土地をもらっている。


宮島村
みやじまむら

[現在地名]豊岡市宮島

一日市ひといち村の南東円山まるやま川東岸にあったが、大正一二年(一九二三)円山川大改修により西岸の旧野田のだ庄宮島村分に移動。地名は但馬国が平家領のとき鎮守の厳島いつくしま大明神(現厳島神社)とともに導入されたと伝える。江戸時代の領主の変遷は立野たちの村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高七八石余。宝暦一三年(一七六三)の村明細帳(岩本家文書)でも同高だが、別に野田庄入作分一四七石余があり、小物成は桑役銀一七三匁九分余・川役米五斗余・刈畑役米五升・山役米一石三斗余・茶役米四升九合。


宮島村
みやじまむら

[現在地名]笹神村宮島

東は七浦ななうら村、北は宮下みやのした村、南は大室おおむろ村に接し、村内を安野あんの川が貫流する。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)に村名があり、大室組に属した。貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高八四石四斗余とある。宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内帳(渡辺家文書)によれば白河藩領で、高一〇〇石余・田畑反別八町余、家数八(高持七・無高一)、男三一・女一九、馬二。


宮島村
みやじまむら

[現在地名]岡部町宮島

殿との村の北に位置し、朝比奈あさひな川の上流域に立地する。寛永一九年(一六四二)田中領郷村高帳に村名がみえ、高六一石余。領主の変遷は村良むらら村と同じ。旧高旧領取調帳では美濃岩村藩領八一石余、ほかに六社除地三石余・曹洞宗清用せいよう(現清養寺)除地一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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