明治〜昭和期の医学史学者,内科医 日本医史学会理事長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
医学者、医史学者。慶応(けいおう)元年5月11日、富士川雪(すすぐ)の長男として安芸(あき)国(広島県)安佐(あさ)郡安村に生まれる。1887年(明治20)県立広島医学校を卒業。上京して明治生命保険会社(現、明治安田生命保険相互会社)の保険医となり、中外医事新報社に入社した。1892年私立奨進医会を組織して、3月4日に第1回医家先哲追薦(ついぜん)会を催し、1895年呉秀三(くれしゅうぞう)とともに医史社をおこし、『医史料』を刊行した。1897年ドイツのイエナ大学に留学し、内科学、ことに神経病学と理学療法を修めた。1900年(明治33)学位を受け、帰国後は日本橋中州養生院内科医長に就任した。1904年『日本医学史』、1912年『日本疾病史』を発刊。同年『日本医学史』に対し、帝国学士院恩賜賞を授与された。1927年(昭和2)日本医史学会の創立に参画し、1938年同学会第3代理事長に就任した。近代日本医史学の鼻祖といえよう。昭和15年11月6日胆石症により死没。郷里広島市に葬られた。
[深瀬泰旦]
『富士川游先生編纂委員会編・刊『富士川游先生』(1954/複製・1988・大空社)』
医師。日本における医史学の確立者。広島生れ。広島医学校卒。上京し《中外医事新報》の編集に従い,ドイツに留学,内科学・神経病学を専攻,帰国後,日本橋中洲養生院内科医長となる。医史学に関心をもち,和漢の古医書を収集して,日本の医学史を大成した《日本医学史》(1904)を著し,これに対し1912年に学士院恩賜賞が授与された。《日本疾病史》(1912)の価値も高い。24年中山文化研究所長。27年日本医史学会を創立し,38年その理事長となる。18年,慶応義塾大学医学部講師として医史学を講じたのをはじめ,各大学に出講した。児童問題のほか,看護,宗教,教育,保険,犯罪,迷信,性問題など幅広い分野で活躍し,著述をのこした。文学,医学の両博士。蔵書は京大,慶応大に寄付された。
執筆者:長門谷 洋治
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…その学問的関心は,はじめ宗教的合理性の追求にあり,認識論や現象学など哲学一般の問題であったが,在学中の兵役体験などから社会的なものに移り,ディルタイからマルクス主義の研究へ進み,《ヘーゲル及弁証法研究》誌を主宰,32年には戸坂潤,岡邦雄らと唯物論研究会を組織,《唯物論研究》の編集責任にあたり,反動的な観念論や日本哲学説への科学的批判を展開した。しかし当局の思想弾圧をうけ,郷里の先輩,医史学者富士川游のすすめで,日本哲学思想史ならびに科学・技術史の研究と著述活動に専念,《日本哲学全書》《日本科学古典全書》など基本史料の集大成のほか,《技術史》や《三浦梅園の哲学》など開拓的労作をのこした。第2次大戦後は,ひきつづき《技術の哲学》《日本の唯物論者》《西欧化日本の研究》などを公刊,国鉄鶴見事故で急逝。…
※「富士川游」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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