富士川游(読み)フジカワユウ

デジタル大辞泉 「富士川游」の意味・読み・例文・類語

ふじかわ‐ゆう〔ふじかはイウ〕【富士川游】

[1865~1940]医史学者。広島の生まれ。和漢の古医書を収集し、日本の医史学を確立。著「日本医学史」「日本疾病史」など。

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精選版 日本国語大辞典 「富士川游」の意味・読み・例文・類語

ふじかわ‐ゆう【富士川游】

医史学者。安芸国生まれ。広島医学校卒。ドイツ留学後、日本医学史の研究史料の収集に努めた。著「日本医学史」で学士院恩賜賞受賞。昭和二年(一九二七日本医史学会創立参画慶応元~昭和一五年(一八六五‐一九四〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「富士川游」の意味・わかりやすい解説

富士川游
ふじかわゆう
(1865―1940)

医学者、医史学者。慶応(けいおう)元年5月11日、富士川雪(すすぐ)の長男として安芸(あき)国(広島県)安佐(あさ)郡安村に生まれる。1887年(明治20)県立広島医学校を卒業。上京して明治生命保険会社(現、明治安田生命保険相互会社)の保険医となり、中外医事新報社に入社した。1892年私立奨進医会を組織して、3月4日に第1回医家先哲追薦(ついぜん)会を催し、1895年呉秀三(くれしゅうぞう)とともに医史社をおこし、『医史料』を刊行した。1897年ドイツのイエナ大学に留学し、内科学、ことに神経病学と理学療法を修めた。1900年(明治33)学位を受け、帰国後は日本橋中州養生院内科医長に就任した。1904年『日本医学史』、1912年『日本疾病史』を発刊。同年『日本医学史』に対し、帝国学士院恩賜賞を授与された。1927年(昭和2)日本医史学会の創立に参画し、1938年同学会第3代理事長に就任した。近代日本医史学の鼻祖といえよう。昭和15年11月6日胆石症により死没。郷里広島市に葬られた。

[深瀬泰旦]

『富士川游先生編纂委員会編・刊『富士川游先生』(1954/複製・1988・大空社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「富士川游」の意味・わかりやすい解説

富士川游 (ふじかわゆう)
生没年:1865-1940(慶応1-昭和15)

医師。日本における医史学の確立者。広島生れ。広島医学校卒。上京し《中外医事新報》の編集に従い,ドイツに留学,内科学・神経病学を専攻,帰国後,日本橋中洲養生院内科医長となる。医史学に関心をもち,和漢の古医書を収集して,日本の医学史を大成した《日本医学史》(1904)を著し,これに対し1912年に学士院恩賜賞が授与された。《日本疾病史》(1912)の価値も高い。24年中山文化研究所長。27年日本医史学会を創立し,38年その理事長となる。18年,慶応義塾大学医学部講師として医史学を講じたのをはじめ,各大学に出講した。児童問題のほか,看護,宗教,教育,保険,犯罪,迷信,性問題など幅広い分野で活躍し,著述をのこした。文学,医学の両博士。蔵書は京大,慶応大に寄付された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富士川游」の意味・わかりやすい解説

富士川游
ふじかわゆう

[生]慶応1(1865).5.11. 広島
[没]1940.11.16. 鎌倉
医師。 1887年広島医学校卒業後上京して,保険医となるかたわら中外医事新報社に入社。以来各種の雑誌の編集にたずさわり,同時に医学史の研究をすすめ,1904年『日本医学史』を著わす。その功で 12年帝国学士院の恩賜賞を受賞。また医学統計学,児童心理学などの分野でも多くの業績を残した。 16年に親鸞聖人賛仰会 (のちに正信協会と改称) を創立し,宗教活動も盛んに行なった。 24年,中山文化研究所創立とともにその所長に就任。 27年,日本医史学会を創立。 38年,同会理事長。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「富士川游」の解説

富士川游 ふじかわ-ゆう

1865-1940 明治-昭和時代前期の医史学者,医学者。
慶応元年5月11日生まれ。ドイツ留学後,東京の日本橋中洲養生院内科医長となる。のち中山文化研究所長。日本児童研究会,日本医史学会などを創立。大正元年「日本医学史」で学士院恩賜賞。後年は宗教活動にはいり,正信協会を創立。昭和15年11月6日死去。76歳。安芸(あき)(広島県)出身。広島医学校卒。号は子長。

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百科事典マイペディア 「富士川游」の意味・わかりやすい解説

富士川游【ふじかわゆう】

医史学者。安芸(あき)の人。1887年広島医学校卒,中外医事新報社に入社。日本医学史の研究に没頭,《日本医学史》(1904年),《日本疾病史》(1912年)等を著し,1927年呉秀三らと日本医史学会を創立。

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世界大百科事典(旧版)内の富士川游の言及

【三枝博音】より

…その学問的関心は,はじめ宗教的合理性の追求にあり,認識論や現象学など哲学一般の問題であったが,在学中の兵役体験などから社会的なものに移り,ディルタイからマルクス主義の研究へ進み,《ヘーゲル及弁証法研究》誌を主宰,32年には戸坂潤,岡邦雄らと唯物論研究会を組織,《唯物論研究》の編集責任にあたり,反動的な観念論や日本哲学説への科学的批判を展開した。しかし当局の思想弾圧をうけ,郷里の先輩,医史学者富士川游のすすめで,日本哲学思想史ならびに科学・技術史の研究と著述活動に専念,《日本哲学全書》《日本科学古典全書》など基本史料の集大成のほか,《技術史》や《三浦梅園の哲学》など開拓的労作をのこした。第2次大戦後は,ひきつづき《技術の哲学》《日本の唯物論者》《西欧化日本の研究》などを公刊,国鉄鶴見事故で急逝。…

※「富士川游」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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