日本大百科全書(ニッポニカ) 「医学史」の意味・わかりやすい解説
医学史
いがくし
医学に関する歴史を扱う学問領域。医学とは、狭義には病気の認識を目的とする科学と考えられている。より広義には医療の専門職による診療活動を意味し、もっとも広義には人間が健康を維持し、不健康になった場合には回復を目的とした活動をすることを意味する。医学史にも、もっとも広義の医学史、やや広義の医学史、そしてもっとも狭義の医学史の3種類がある。
[中川米造]
広義の医学史へ
医学史が実際に編まれる背景を考えると、まず医療専門職が自立し、相当の社会的地位を獲得した段階で、その地位を再確認するために先人の列伝としてなされるのが普通である。その時期は、ヨーロッパではルネサンス以降、日本では江戸時代末期である。その後、科学の役割に社会が注目するようになり医療も科学を正面に掲げて行うようになると、科学つまり最狭義の医学史が中心になり、医療における科学的方法の価値を再確認させることに貢献した。
第二次世界大戦以後には、社会的背景の変化に対応して、病人の処遇をめぐる問題としての医療史、あるいは精神病やハンセン病などの病気の社会史、さらに医療の起源や意味を問うための医療人類学的な研究も盛んに行われるようになった。こうした動向は、16世紀(本格的には19世紀)から医療の前面に出てきた自然科学的な方法が、第二次世界大戦後の、健康権を基礎とした要求に正しくこたえられなくなってきたことを意識しつつ、新しい医療・保健システムを模索するなかから生じてきたといえる。つまり、保健活動まで含めた最広義の医学史が、いま求められつつある。
[中川米造]
医学前史
原始的生活と健康
健康に関する論議では、自然な生活、原始的な生活が理想的なモデルにされる。中国最古の医学書と伝えられる『黄帝内経(こうていだいけい)』の冒頭には、「昔は人々が数百年も生き長らえられたが、その間活動し続け、老衰することがなかった」とある。『荘子(そうじ)』には「人類がまだ素朴純真な心を文明に汚染される以前、社会が文化の中毒症状を呈する以前には、すべての人々は自己の生を全うする安らかな生き方を身につけていた」とある。太古、人間は無病で長寿を保ったという話は多くの民族の伝承にみられる。『旧約聖書』に出てくる人間の祖先たちはすべて何百年も生きたとされている。ギリシアにもそうした神話が多い。牧神パンが生まれ、素朴な生活を楽しんだというアルカディアは、ヨーロッパ文明では自然な生活と健康な土地の代名詞になった。中国でも陶淵明(とうえんめい)が書いた桃源郷が同じ意味で用いられる。しかしその実際はどうであっただろうか。今日、いわゆる「未開社会」に生活する人々を観察することができるが、その人々と生活が健康か不健康かは、判断する人の価値基準によって左右される。また「未開」であるからといって、現在のそれを歴史的な過去の状況と同一視することには問題がある。つまり、理想的なモデルを具体的に示す証拠はあまり残されてはいないということである。
[中川米造]
生活上の知識・経験と健康
有史以前の人類が、必要に迫られて生活上の知識や経験を積んできたことは推測にかたくない。またそうした知識や経験が健康な生活の維持のためには不可欠の要因であった。食物採集生活を営んでいた時代、食物を得るために、それが動物であれば、その生態や習性を熟知しなければならない。植物についても、食用になるものか、毒性のあるものかを鑑別できなければならない。栽培するとなれば、より高度の知識・技術が必要になる。粒状の穀物を粉砕し消化しやすくすることをどのようにして知ったかは不明であるが、これも有史以前に始まっている。古代ギリシアの医師ヒポクラテスは『古い医術について』で、医術の始まりは調理術であると主張しているが、食物の調理も健康な生活には不可欠である。
[中川米造]
医神・呪術
多くの民族の神話には医療神が登場する。そしてその多くが農耕神を兼ねている。中国の神農は、人間に農業、占いとともに医薬を教えたとされる。この神農は頭に角(つの)をもつ容貌(ようぼう)につくられているが、これは農耕にウシを使った象徴である。日本では、少彦名命(すくなひこなのみこと)という小さな神が農業と医薬を人間に教えたとされる。
「未開社会」で、「未開」であるということと結び付けて説明されるのが呪術(じゅじゅつ)である。予期しない危機や不安に際して、経験では対応しきれない場合、かならずといってよいほど呪術が登場する。こうしたことは「未開社会」に限らず、現代社会においても、やはり経験を超えるような事態に遭遇したときに現れてくる。しかもこれは動物社会の行動にはみられず、人類特有の行動様式と考えられる。つまり呪術は感情の世界の論理であり、合理的、経験的に問題状況から脱出できないときにとる思考様式であり、その点では発明・発見の過程の前提をもなす部分と共通している。ただ発明・発見のように、それが新たな合理的解決に至ることがないまま、感情的論理を満足させるために様式化が進んだと考えられる。
健康を維持するうえで、あるいは病気を治療するうえで、感情や精神の働きを無視することはできない。その点で呪術や宗教は、それなりの効用をもっており、まったく無意義なものではない。
[中川米造]
古代文明と医学
メソポタミア・エジプト・中国の医学
文明の発祥地とされるメソポタミア、エジプト、中国の古代国家では、医療は重要な政治の道具として国家の制度に組み込まれた。人々の身体的な苦痛を軽減する技術である医療を権力に引き寄せておくことは、支配力の強化に有効であった。
メソポタミアの場合、医師は司祭を兼ねた。病気はすべてそれぞれの症状を引き起こす悪神のためとされ、治療神と最高神がたたえられるとともに、症状に対する医学的な診断と処置が講じられた。現存する最古の法典とされる『ハムラビ法典』には、医療報酬や医療過誤に対する罰則の規定がある。また、発掘された粘土板に刻まれた楔形(くさびがた)文字の解読が進むなかで、かなり多くの医学、薬学に関する記述のあるものが判明しており、メソポタミア医学の再現も進みつつある。
エジプトでも医師は司祭を兼ねた。紀元前2000年代の初期王朝時代から残されているパピルス文書には医学に関するものも少なくない。それによれば、医師たちは複雑な症状群を正確に記載する能力があり、また単純ではあるが合理的、経験的な治療法を多くもっていたことが知られる。エジプトでは、時代が新しくなるほど神秘的・呪術的要素が強くなる。これに関しては、宗教との結び付きが強化されたのか、あるいは偶然に残った資料がそのような傾向のものに限られたのか、明らかではない。エジプト医学で謎(なぞ)とされているのは、過度ともいえる医師の専門化である。目の治療の専門家、頭痛の専門家、肛門(こうもん)、さらには特定の内臓の専門家などである。こうした状況は、一般的なものから特殊専門が分化するという常識的な進歩観からすれば驚異である。しかし、一般的になる前段階として、個々の医師が発見・開発した技術を国家がただ集めて存続させたために生じた状況であろう。
中国では、医学は官僚の管理下に置かれた。多くの医学書は、宮廷で編纂(へんさん)・保管された。『黄帝内経(こうていだいけい)』は、伝説上の帝王である黄帝と家臣との対話の形式で医学知識が述べられているが、これは、権力が従来の伝承を結集してつくったものであろう。また『傷寒論(傷寒雑病論)』は、後漢(ごかん)(25~220)の時代、長沙(ちょうさ)の太守の張仲景(ちょうちゅうけい)が著したとされるが、おそらく民間に伝えられた経験を権力によって集約し、太守の名で発表したものであろう。
[中川米造]
古代ギリシアの医学
古代社会でも、ギリシアになると、近隣のメソポタミアやエジプトと状況が異なってくる。古代ギリシア人は信仰深くもあったが、それとは別の次元で合理的な自然観を育てた。これは、ギリシアが多くの地域で後背地が岩だらけの山地であり、強大な国家を建設するためには主として交易によって生計をたてざるをえず、それがより互換性のある合理性や経験的知識を尊重することにつながったためと考えられる。医療もギリシアでは多彩な形態と学説をとることになった。
そうしたなかで、ギリシアの医学を代表するのはヒポクラテスである。彼は、ギリシア人に広く信仰された医療神アスクレピオスに連なることを標榜(ひょうぼう)して医療を行っていた職業者集団アスクレピアダイの一門に生まれ、地中海や小アジアなどを広く旅して技術の修得と観察経験を重ね、存命中から名医としての評価を得ていた。そして死後、一段と名声が高まり、医学が批判されるような事態が生じるたびに「ヒポクラテスに還(かえ)れ」といわれるほどの存在になった。一般的にヒポクラテスの見解として伝えられているのは、
(1)身体の機能の正常・異常を全体として把握する考え方(全体論)、より具体的には、全身に行き渡っている基本的な体液(血液、粘液、胆汁、黒胆汁)の配合の過不足(体液病理)で説明すること
(2)個体の健康と環境との関係、衛生法の重視
(3)自然治癒力を尊重し、治療はその力を援助することという考え方
などである。彼の所説の集大成として『ヒポクラテス全集』Corpus hippocraticumがある。しかしこのなかには、彼とは文体や考え方のまったく違う論文が多く混在しており、どれが彼の真筆であるか異論のあるところである。医師の倫理を述べた文章としての「ヒポクラテスの誓い」はあまりにも有名である。しかしこの誓いは、彼もそのメンバーの一人であったアスクレピアダイの誓いであり、それを彼の名を冠してよぶようになったのである。
[中川米造]
古代ローマの医学
ギリシアの後を襲ったローマ文明は徹底して陽気であり、雄弁術や土木、建築などに力を注いだ。他方、陰気な病気を嫌い、その研究や病人の世話などを嫌った。とはいえ、病気は存在し、医者を必要とする。ローマ人は占領地から連れてきた医師を診療にあたらせた。これを奴隷医という。奴隷医は高官の治療などで功績をあげると解放され自由医となり、スポーツクラブに雇われたり、町で開業した。ローマ帝政時代、市民道徳は退廃したが、医者のモラルも地に落ちた。ガレノスは「追いはぎと医者とは同じだ。ただ追いはぎは山野で、医者はローマの町中で悪事を働くだけの違いだ」と批判した。ローマ時代には書物が多数つくられた。その大半は、多くの先人の残したものを奴隷に筆写させ、編集して、大部な本に仕上げたものである。G・プリニウスの『博物誌』は37巻を数え、2000冊の本、2万の採録項目をもつが、それは直接研究したものではなく、多くの著述から注目に値する事項を抽出し、体系づけたものである。ディオスコリデスの『薬物誌』De materia medicaは600種の薬用動植物について、製法、貯蔵、鑑別、効能、用量などに関する多くの人々の見解をまとめている。
こうしたなかにあって、医者・学者として有名なのがガレノスであった。彼はペルガモン(現、トルコにあった古代都市)生まれで、成功を求めてローマに上り、学問を修めるとともに、処世術にたけてもおり、名声を得るに至った。彼の医学は基本的にはギリシア医学、とくにヒポクラテスを継承し、ヒポクラテスの学説の注解のほか、多くの論文を書き、中世から近世にかけての医学のテキストとして用いられたものを残した。近世の科学革命の過程で、中世的な理論を批判克服していくとき、ガレノスの主要な見解はその大きな標的とされ、医学の近代化の反面教師のように扱われているが、それはけっしてガレノスの評価を下げるものではない。
[中川米造]
中世の医学
キリスト教と医学
476年ゲルマンの東ゴート人がローマに攻め込んだときをもってローマ時代の終わりとするのがヨーロッパ史の常識である。それ以降ルネサンスまでを中世という。中世はしばしば暗黒時代とか野蛮の時代とされるが、むしろ中世に関する資料が少ないために暗黒とみなされるという意見もある。一般に、異質の文明がいかなる形であれ混交するときには、より文明が高められるのが普通である。事実、中世には農業生産性は高まり、建築や造船には大きな進歩がみられる。ところが医療・保健に関しては、混交した文明がいずれもあまり価値を置いていなかったために、さほどの変化はなかった。
中世は宗教支配の時代である。教会は精神的にも物質的にも社会の中心となり、有用技術の保存と開発に大きく貢献した。医学もそのなかに含められたので、中世の医学を教父医学、教会医学、僧院医学などとよぶ。キリスト教の各宗派のうち、医学に関して知られるのはベネディクト教団である。6世紀にローマの南、モンテ・カッシーノの丘に建てられた僧院では、その創始者聖ベネディクトゥスの遺訓に従って、看病や医療を教団活動の重点の一つに定め、医学書の収集や薬草園の設立を進め、教団に属さない人々へのサービスも行った。このほかにかなり熱心に同様な取り組みをした教団もいくつかある。ただし、キリスト教の教義は魂の救済にあり、肉体の苦痛を除くことに力を注ぐことは、この本義と相いれないとも考えられる。したがって、キリスト教による医療救済活動には動揺がある。たとえば、イエズス会は1549年(天文18)以来、日本での布教活動の一助として、各地で神父による診療を行ったが、1560年(永禄3)にはイエズス会本部から医療事業禁止令が伝達されて衰退した。
[中川米造]
病院の始まり
僧院医学に関連して、中世に起源をもつのは病院である。ローマ時代にベレトゥディナリウムと称する施設がローマ軍の駐屯地に設けられ、傷病者の収容・治療が行われたが、これは軍人専用の施設であった。またローマ時代に信仰厚かったローマの貴婦人ファビオラがノゾコニウムと称する施設を設け、医療救済を行ったことが記録されているが、社会的な影響はなかった。
7世紀ごろからヨーロッパ各地の領主が散発的に「ホスピタル」を建設し始めた。日本語では「ホスピタル」に「病院」の語をあてるが、歴史的にみれば、ホスピタルはかならずしも病人だけの収容施設ではない。旅人を泊めたり、孤児、孤老、身体障害者を収容する施設であることが多く、それらはいずれも慈善施設であった。11世紀から13世紀にかけての十字軍と並行して、教皇インノケンティウス3世とその協力者ギイ・ド・モンペリエGuy de Montpellier(1160―1208)はヨーロッパ各地を勧進(かんじん)してホスピタルを建設した。ホスピタルは街の区画内に設置された。これに対して初めから街の外に設けられたのは、医学的知識が未熟であったこの時期においてはハンセン病(レプラ)患者専用の施設、またペストの流行時に設けられたペスト舎などである。ハンセン病院については、1179年のラテラン公会議で布告が出され、ヨーロッパ各地に教会が中心となって専用収容所が設けられ、13世紀には1万9000施設に達したという。しかし、施設の拡大とともに、ハンセン病患者はしだいに減少し、17世紀になるとヨーロッパからほとんど姿を消した。
[中川米造]
ペストの流行
中世には民族の大移動や戦争、交易の拡大などに伴って多くの病気が流行したが、なかでもペストは繰り返し大流行した。とくに激しかったのは1348年で、一説にはヨーロッパの人口が半減するほどの死者を出した。その後1360年、1369年、1382年と小流行があり、15世紀に7回、16世紀に7回、17世紀に8回あり、18世紀に至ってようやく局地的、散発的になり、ヨーロッパでは消滅した(19世紀に入ると、中国で大流行した)。これらの流行に対し、医学はなすべき方策をもたず、病人や死者の隔離と、汚染した空気を清めるために芳香を発する薬草を大量に燃やす程度のことしかできなかった。
[中川米造]
医学の中心地
医学の中心地は一般に人や物の動きの激しい都市である。古代ギリシアのクノッソス、ミケーネ、コリント、メガラ、アテネ、サモス、コス、ロードスなどは、交易の中心地であるとともに医学の中心地でもあった。ローマ時代はローマが第一級の医学センターとなり、ローマが滅びると、中心地はビザンティンのアレクサンドリア、それがアラブにとってかわられるとバグダードや東方貿易の要衝ジュンディシャープール、そしてフスタート(カイロ)などがその後を襲った。これらイスラム圏の都会では、ギリシア、ローマの医学のほかにインドや中国の医学も摂取され、多くの名医を輩出せしめたが、あまりにも厳格なイスラム教の影響によって理論的な発展はなく、むしろ、摂取した諸医学の要領のよい教科書や解説書を通じてルネサンス以降のヨーロッパ医学にそれらを伝達する役目を果たした。
中世の医学は僧院の内に閉じ込められていたが、中世前半からサレルノ、続いてボローニャ、パリ、モンペリエといった都市が医学の中心地となった。
サレルノはナポリの南に位置し、7世紀にベネディクト派の僧院が建ち、気候もよかったことなどから、保養地として有名になった。11世紀ごろから医学センターとして知られるようになり、ヨーロッパ各地から治療を目的とした患者が多く集まり、医学校も設けられた。伝説によると、この医学校はギリシア人、アラブ人、ユダヤ人、ラテン人の4人の教師が創設したという。これは、サレルノがこれら四つの文化の共存できる条件のある都市であったことを示すものであろう。1140年には、この地方を支配するシチリア王ルッジェーロ2世の名で、医師の試験免許制が布告された。これはヨーロッパにおける医師免許の始まりである。
モンペリエは交通の要衝で、人口も多かった。1180年ごろ、モンペリエの領主ギヨーム8世Guilhem Ⅷ de Montpellier(1157―1202)伯は、自国民・他国民の区別なく、また門地・宗教のいかんにかかわらず、医師はモンペリエで医学を教えてよいという布告を発した。そのため、多くの医師が個人塾を開き、無統制に授業を行った。1220年、キリスト教徒がローマ法王の教書を得て、モンペリエ地区の僧正の監督下に医学教育の統一組織をつくり、ウニベルシタス・メディコールムと称した。これは医科大学とも訳せるが、医師組合とするほうがよい。この組合が医学教師の能力審査や学生の資格審査を行った。
[中川米造]
医学教育と大学
12世紀になるとヨーロッパ各国で大学が設立された。ウニベルシタスは職能人の組合・結社であったが、イタリアでは学生がこのことばを「学生組合」として用いた。この組合がレクトーレ(現在の用語では学長だが、組合長の意)を選出し、彼が中心になって教師を招き、授業をさせた。14世紀後半のボローニャの場合、ウニベルシタスに68人の教師が雇われており、うち7人が医学担当であった。パリでのウニベルシタスは教師の組合であった。1254年、法律、神学、医学、哲学の4部門の教師組合が合同してウニベルシタスとなり、教育学習の管理運営の主体となった。
中世末期から、このようにして高等教育機関がヨーロッパ各地に設けられ、そこで学力があると認められると学位が与えられた。学位の呼び方はさまざまあるが、ボローニャ大学がドクトルという称号を使い始め、他の大学もこれに追従するようになった。この称号はラテン語のドセレ(教える者の意)に由来する。ドクトルとよばれる医師は、高等教育を受けた者であるが、直接医療の能力までも示すものではない。また、学位をもった医師だけが医療業務を独占する法的規制が実現するのは19世紀であり、それまでは学位をもたない医療者が多く存在し、それを規制する法律もたびたび出されたが、ほとんど実効はなかった。たとえば、床屋外科医とか湯屋外科医とよばれた医療者は、調髪やひげの手入れのほかマッサージや瀉血(しゃけつ)など庶民の日常的な保健の技術者として、また骨折や負傷の処置を提供する専門家として、広く支持されており、古くから組合をつくって抵抗したので、規制が困難であった。
[中川米造]
市民社会の成立と医学
近代医学の出発――解剖学
ヨーロッパ各地で大学が開設される状況は、知識が社会的に価値を認められるようになったことを示している。文芸的な知識の起源を求めて遡行(そこう)し、その源泉としてのギリシアを再発見したのがルネサンスであるが、自然の知識については、聖職者と医師が大きな関心をもった。聖職者は自然の秩序を明らかにして神の支配をより深くするために、そして医師は患者の信頼を得るためにである。したがって、近代科学の形成期に医師が果たした役割には大きなものがあり、医療とは直接の関係がない物理学、化学、生物学などに及んだ。たとえば電磁気学におけるW・ギルバート、化学におけるパラケルススらが知られている。一方、この時期には解剖学の急速な発達がある。人体の構造に関する知識は、それを知らなくても中国やアラビアの医学のように治療は可能であるが、しだいにその重要性が認識されていった。ローマ時代にガレノスは解剖学のテキストを著し、8世紀のサレルノの医学校でも解剖学は必修とされた。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、サレルノの外科学生にはとくに1年間の解剖学研修を義務づけた。もっとも実習の材料は動物が主であり、人体解剖は5年に1回程度、公開で行われた。モンペリエではアンリ・ド・モンドビユHenri de Mondeville(1260ころ―1320)が最初の解剖学教授である。解剖学はこのような草創期を経るが、14世紀には、ボローニャのモンディノが解剖学書を著し、これが各地の医学教育の代表的な教科書となった。15世紀末になると、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ビンチらの芸術家たちも解剖を行った。なかでもダ・ビンチの解剖スケッチは傑出している。
こうした前段階があって、ベサリウスが登場する。19世紀以降の医学史の主流は、彼の『人体の構造に関する七つの本(ファブリカ)』De humani corporis fabrica libri septem(1543)が、それ以前の古い解剖学を新しい実証的観点から書き直すことによって、近代医学の先駆けとなったと評価する。さらにベサリウスに1世紀遅れて、ハーベーが数量的方法と実験による帰納法に基づいて、それまでの古い血液運動論を克服し、血液循環を証明したことをもって、近代医学がより確かになったとする。ハーベーは血液の運動原理を問題にし、心臓をポンプと考えるところから出発して、血液循環論を生み出した。17世紀には、揚水ポンプが人々の目に触れるほど一般化していた。産業も盛んになり、各種の機械が導入され始めていた。ハーベーにポンプの類推を可能にした背景があったのである。
[中川米造]
新しい病気
機械の導入などにより産業が活況を呈してくるなかで、産業労働者の健康障害が一部の医師に注目されるようになった。鉱山・冶金(やきん)に詳しかった医師アグリコラは、主著『デ・レ・メタリカ』De re metallica(1556)のなかで、鉱山労働者の関節、肺、眼の疾患に関してページを割いている。
中世にはペストとハンセン病が流行したが、ルネサンス期になると新世界から持ち込まれた梅毒が、人の動きとともに急速に蔓延(まんえん)した。18世紀になると、都市への人の急激な集中による不衛生な状況のなかで、発疹(はっしん)チフス、腸チフス、コレラなどが流行を繰り返した。そこで上下水道の整備や河川の汚染防止などの環境衛生の改善が進められ、一方では貧困階層の病人の救療施設としての病院が、大都市に設けられるようになった。中世のホスピタルが単なる収容施設から診療施設として変貌(へんぼう)するのである。この二つの事業に、高等教育を受けた医師たち、つまりドクトルが大きく関与し、そのことによって彼らの社会的評価が高まった。とくに病院では、ドクトルたちが多くの場合、無報酬で貧困階層の病人の治療にあたった。そして、それ以前の医学教育が講義と教科書に拠(よ)っていたのに対し、高名なドクトルの病院での奉仕診療をかたわらから見学するという授業の形も生まれてきた。病院には若手医師や医師志望者が集まるようになり、やがて病院は医学教育と医学研究の機関として大きな役割を担うようになる。
[中川米造]
病院の医学
病人と病気
病院の変化により医学にも大きな変革がおこる。つまり、それまでの医療は、医師と顧客としての患者は一対一に向き合う人間的関係を重視しながら、医師がもっている学識や経験を最大限に生かすべく行われた。医師がサービスにあたるのは、個々の病人であり、その症状を緩和することに医師は力を傾けた。ところが病院では患者の数が多い。しかも周囲には若い医師や医学生などの第三者も少なくない。単純な一対一の関係は維持できないし、病人へのサービスというより、病人から病気を除くことが主要な行動目標になる。この病気という考え方、つまり病人と独立したものとしての病気という考え方が成立するのは、病院が診療機関となってからである。病気という概念を前述のように考えた先駆者として、17世紀におけるイギリスのシデナムの名があげられるが、より一般的には18世紀後半以降である。病気を客観的な実体として扱うことが一般化してから、同じく客観的な方法を重視する自然科学と親近性をもち始める。病院では患者は「症例」として病気の標本と考えられる。多くの標本を重ね合わせると、それらに共通のものとしてそれぞれの病気の種の形が浮かび上がる。不幸にしてそれらの症例が死亡すれば、ただちに解剖して病変部位を確認する。この方法は、まずイタリアのモルガーニが精力的に取り組んで『病気の所在と原因について』De sedibus, et causis morborum per anatomen indagatis(1761)と題する著書にまとめた。病気の座を明らかにすることは、すなわち原因を明らかにすることという所説である。病気の座がわかれば、それを除く手段もくふうできる。解剖学の医学における実用的な意味がはっきりしたのは18世紀後半以降である。医学生や医師たちは競って人体解剖に取り組んだ。やがて、病気の座の研究である病理解剖学も、組織解剖学、細胞病理学へと微視的な次元へ観察の次元を広げることで、いっそう普遍的な理解を目標にするようになった。
[中川米造]
外科技術の発達
このような方法で、まず革新を迎えたのは外科手術である。生前の観察と死後の解剖観察から、診断がしだいに確実になると、それを除去する方法が要求される。いかに安全にそれを行うかについての技術革新が重ねられていく。外科にとっての三大革新は、消毒、麻酔、止血である。消毒法が導入されるまで、外科医たちは、傷口が化膿(かのう)するのは当然であるばかりか、化膿自体が治癒を促進するとさえ考えていた。ハンガリー生まれのゼンメルワイスは、1847年分娩(ぶんべん)後多くの産婦の命を奪った産褥(さんじょく)熱の原因の大部分が産科医の手や器具に付着した死毒にあると考え、それらを塩素水で厳しく洗滌(せんじょう)させて死亡率を下げた。一方イギリスのリスターも、創傷部や手術室を石炭酸水を用いて清潔にすることで、化膿せずに治癒することを証明した。のち、パスツールの微生物病原説によってこの2人の主張の正しさは証明され、消毒、無菌手術が開発された。麻酔については、そのような作用をもつ物質のあることは以前から知られており、ときに医療に用いられたこともあったが、積極的に手術のために導入されたのは、1846年アメリカ、ボストンの歯科医モートンによる。止血も、それまでは体表の出血が多かったため、焼きごてによって熱凝固を図るものであったが、出血血管を確認して圧迫するための器具の発明、あるいはその部位を糸でくくるなどの技法が次々に開発された。これらの技術は、消毒法には抗生物質の補助、麻酔にはそれらを専門的に開発管理する麻酔専門医の発明、止血には積極的に輸血や輸液などの方法を加えることで、どの部分でも、ほとんど危険なく手術できるようになった。もちろん、その前提としては、病理解剖学を媒介にした診断法の進歩があり、病気のある部分がますます精確に判明するようになったことがある。その二つの車輪の上にのって現在までほとんど屈折なく進んできたのが近代外科である。
[中川米造]
内科の混迷と社会医学の芽生え
医療のいま一つの大きな分野である内科的方法は、それほど直線的ではない。内・外科ともに診断法は主要な手段である。しかし治療法については、病気の部位と性状が判明しても、内科では、外科のように処方には結び付かない。18世紀から19世紀にかけて、古くから用いられてきた、あるいは新しく導入された内科の治療法について統計学的な検討が各地で行われたが、その検討に耐える治療法はほとんどなかった。このような状況で治療上の虚無主義あるいは懐疑主義が広がった。その一方で、治療法には信頼が置けないという理由で、病気の発生状況に目を向ける医師たち、あるいは社会改良家たちが出てきた。彼らは同じ統計的方法を用いて、特定の病気が多発している地域、職業、生活条件などの差に注意し、原因と考えられる条件を改めることで、病気を予防しようとした。産業革命の進行によって、都市の衛生状態は極度に悪化しており、労働者を中心に病気が蔓延(まんえん)していた。エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845)のなかには、主としてイギリスの医師たちの、前記のような都市における観察が多く引用されている。現代風にいえば、社会医学の台頭であるが、19世紀の中ごろから、社会ということばが流行しなくなり、さらに医師たちは、新しい方法をみつけて、社会から実験室の中へと目を転じ始めた。
[中川米造]
実験室の医学
医学の中心、ドイツ
近代医学の中心地は、18世紀にはライデン、エジンバラ、19世紀の前半はパリとウィーンであった。後半からドイツが世界の医学の中心になり、各国から多くの医学生、医師たちを引き寄せた。日本も、この情勢に気づき、西洋医学への転換に際し、ドイツ・モデルを採用することにした。
ドイツ医学の特質は実験室医学にある。それを大学のなかに定着するよう国が指示し、医学部の教員・学生はいずれも実験室における研究を中心的な使命と自覚する体制をつくりあげた。ライデン・エジンバラ時代からパリ・ウィーン時代の医学は、もっぱら病院における病気の観察と死後の病理解剖という方法によって発展してきた。ドイツでは自然科学的方法を医学のなかに導入し、より微小な世界に分析の目を進めた。その代表となったのは細菌学である。顕微鏡の改良と染色技術の開発によって、微小な生物が伝染病の原因であることを実証し、その理論に基づいて治療法を求める可能性を開いたのである。ついに医学は原因療法を手にすることができるのではないかという期待を集めた。ドイツのコッホ、フランスのパスツールを先頭とする細菌学者によって次々と病原菌が発見され、その発育を阻止する物質が開発されて有効性を示した。同様に微視的な分析法を用いてビタミン欠乏やホルモンの過不足、そのほか有害物質が判明して、「驚異」の治療法、「奇跡」の新薬を世界に送り出した。
[中川米造]
企業・国家の援助と医学研究
このような開発研究は、個人や大学の費用では賄いきれなくなる。また開発された新薬が大きな市場をもつことになるために企業が進出してきた。エールリヒの梅毒治療剤サルバルサンの開発、ドーマクのサルファ系化学療法剤開発の端緒となったプロントジルの発見など、いずれも企業からの研究費あるいは直接企業内研究所で行われたものである。第一次世界大戦によってドイツが世界から孤立し、さらに敗れたことでドイツ医学の世界における優位は失われた。日本を除いて、敗戦国ドイツに医学を学びに集まる外国人はいなくなり、それぞれが独自の医学を育て始めた。とくにアメリカは、その豊かな資金力を駆使し、医学研究にも巨額の投資を行ってたちまち世界の指導的位置についた。たとえば抗生物質ペニシリンは、原理的にはイギリスのフレミングが発見したものであるが、それを工業生産化するためには、イギリス一国では対応できず、アメリカ連邦予算からの大幅な研究費を投入して初めて可能になったのである。
[中川米造]
社会の医学
権利としての健康
第二次世界大戦後、世界の医療は新たな展開をみせる。それは世界保健機関(WHO)が組織されて、健康であることが基本的人権の一つであると宣言されたことによる。日本でも1946年(昭和21)公布の新憲法が、「健康で文化的な」生活を送ることを国民の権利として規定した。それまでの医療は、そのサービスに対して報酬を払うこと、いわば商品としての医療を購入できる人が基本的に利用し、かたわら慈恵的に、あるいは社会政策的に無報酬で医療が提供されることがあったにすぎない。しかもこの無料患者が慈恵の名のもとに、教育や新技術開発の「材料」として扱われることがあった。日本でいまだに残る大学付属病院での「学用患者」という名称はその名残(なごり)である。
医療が権利保障の重要な柱であるということは、経済的、地理的、社会的な条件による差を行政的に解消しなければならないことを意味する。いつでも、どこでも、可能な限り、優れた医療技術がだれにでも適用されなければならない。先進諸国は、資本主義国であっても、健康保険の創設拡充や医療施設の拡充を図り始めた。
[中川米造]
医療需要の増大と医療の産業化
しかしながら、医療需要の増加、つまり患者数の増加のペースは急であり、行政的な対応はつねに遅れがちであった。急速に増大する医療需要の処理が医学への大きな要請になった。近代医学の方法の基本である病気中心主義、そして分析的な方法は、それを一段と徹底することでこの要請に対応できると思われた。そうした方法の研究開発のために政府および企業からの援助が増加した。測定技術の進歩により、患者の病像は画一的、数量的、機械的に処理され、医療従事者は分業、専門化され、「合理化」が進められ、産業的様相を呈するようになった。こうした医学の変貌のなかで、処理能力は向上したが、個人として、あるいは家庭や社会に存在する人としての病人が見失われようとしていることに批判がおこってきた。また新技術開発に伴って必要な人体実験についても倫理的問題が多くあることが明らかになった。もっとも重大だと考えられたのは、このような医学の普及によるだけでは、ただ医療需要を増すのみで、健康権が要求する健康な生活を保障しえないのではないかという危惧(きぐ)が高まってきたことである。
[中川米造]
アルマ・アタ宣言
開発途上国を含め世界の人々の健康権の保障について原理的に責任をもつWHOは、1978年「アルマ・アタ宣言」を採択し、その方法を示唆した。それは「プライマリ・ヘルス・ケア」primary health careと称されるもので、「自助と自決の精神に則(のっと)り、地域社会または国が開発の程度に応じて、負担可能な費用の範囲内で提供できる、科学的に適正で、かつ社会的に受け入れられる手順と技術に基づいた欠くことのできないヘルス・ケアのことである」「人々が生活し労働する場所にできるだけ近接して……国家保健システムと個人・家族・地域住民が接触する最初の段階であり、継続的なヘルス・ケア過程の第一段階」なのである。そのようなプライマリ・ヘルス・ケアのうえに、調和ある医学を地域社会のなかに組織していくことが、これからのもっとも大きな課題となるであろう。
[中川米造]
日本の医学の流れ
先史時代
縄文期や弥生(やよい)期の先史時代にどのような医療技術があったかは、ほとんど知る術(すべ)がない。発掘された人骨に種々の病変が認められる場合もあるが、どのような処置や治療がなされたかは不明である。南アメリカなどでは穿頭(せんとう)術を行った頭蓋(とうがい)骨が発見されるが、日本では確証の得られるものはみつかっていない。歯を特定の形式に従って抜いた頭蓋骨が各地で発見されているが、これは呪術(じゅじゅつ)師のものと推測される。『古事記』や『日本書紀』には病気、医療にかかわる神話が記載されている。興味をひくのは、日本の医術の起源としてしばしば引用される『日本書紀』の少彦名命(すくなひこなのみこと)と大国主命(おおくにぬしのみこと)の神話である。この2神は協力して国家経営にあたったが、とくに民衆と家畜の病気を治療する方法を定め、また鳥獣虫害を避ける方法を定めたとされる。少彦名命は任務を終えると、アワの茎にはじかれて常世(とこよ)の国に帰ったとされるが、このことは少彦名命が外来者であることを思わせる。『古事記』にあってよく知られた因幡(いなば)の白ウサギの話、すなわち大国主命が赤裸にされたウサギに、真水でからだを洗い、蒲黄(がまのはな)にくるまれば治ると教えた話は、古代人の医療知識を物語るものである。
[中川米造]
古代
3世紀から6世紀の古墳時代、各地の豪族はその勢威を実質化するために朝鮮半島から優れた技術を導入しようとした。そのなかには医療技術も含まれる。記紀には、允恭(いんぎょう)天皇の時代に天皇の病気に際して新羅(しらぎ)に医師を求めた(414)とか、同じく5世紀なかば雄略(ゆうりゃく)天皇の依頼で朝鮮からきた医師が定着し、代々医を業とした、という記述がみられる。大陸との交流は疫病も移入する。6世紀ごろから、しばしば麻疹(はしか)や痘瘡(とうそう)と思われる流行病が日本を西から東へ伝播(でんぱ)した。疫病の流行は当時、伝来した仏教への為政者、民衆の信仰を促し、仏僧が医療に携わるようになった。仏教の慈悲の思想に基づく貧者・孤児の救済施設、悲田院(ひでんいん)や施薬院(せやくいん)もこのころ設けられたと伝える。
7世紀から8世紀、天皇家は大和(やまと)地方に政権を確立し、中国の政治や文化に範をとって体制を整えた。医療も権力主導の下に体制化される。大宝律令(たいほうりつりょう)(701)や養老(ようろう)律令(718)では、唐の官制に模して医療や医学教育に関する詳細な規定を定めた。それによれば、中央には宮廷内の医療に従う中務(なかつかさ)省内薬司と、宮廷外の医療に携わる典薬寮が置かれ、地方には各国に国博士(くにはかせ)と国医師が置かれて医療職能者の養成にあたることになっていた。しかし、この大規模な体制が規定どおり機能する段階に達したかどうか、また宮廷および官僚たちの医療需要に応じたほか、どれほどそれ以外に門戸を開いていたかなどについては、かなり疑義が挟まれる。なお律令には傷病者福祉の規定があり、有疾者には、重症度に応じて3段階の区分を行い、それぞれ課役の減免措置や、重症者に対する看護者の数まで定めている。実際の医療や救護については仏教僧侶(そうりょ)の記録が多く残っている。またこの時代の薬物については正倉院に現存している。
9世紀に入ると、遣唐使の廃止などもあり、それまで輸入した知識に頼っていた日本の医師たちのなかから医学書を編む者が現れ、12世紀ごろまでにその数は30種あまりとなる。この背景には、日本人医師の経験が蓄積されたこととあわせ、それら医書の重要なものがほとんど勅命によって編まれていることから、たびたびの疫病の流行などに対し、為政者として医学的知識と経験を整理する必要があったと考えられる。日本で最古の医学書とされるのは和気広世(わけのひろよ)の『薬経太素(やっけいたいそ)』(799)であり、ついで出雲広貞(いずものひろさだ)の『大同類聚方(だいどうるいじゅうほう)』(808)がある。現存する最古の書に丹波康頼(たんばのやすより)の『医心方(いしんほう)』(984)がある。ただしこれらは記述様式や原資料においては、隋唐(ずいとう)医学の枠を出るものではない。
[中川米造]
中世
12世紀になると中央の貴族政権は力を失い、16世紀まで戦乱が続く。この時代、従来からの仏教は力を失うが、地方の新興勢力や庶民に基礎を置いた新しい仏教が登場し、それらの僧侶は布教の一環として活発な救療活動を行った。また新興勢力が経済的な力を得てくると、彼らを顧客とする医家がいわゆる開業医として出現する。これらの医師のなかには、明(みん)に渡って医学を学んだ者も少なくない。またこの時代には、独自の発想や記述様式による医学書が現れる。僧医の梶原性全(かじわらしょうぜん)の著『頓医抄(とんいしょう)』(1304)は仮名交じり文による医学書の最初である。さらに、自らが開発した特技やとくに詳しい知識をもつ専門医が登場する。眼科・婦人科・歯科、および戦乱の時代のなかで外傷の治療を主とする金創医などは比較的早くから専門化した。こうした開業医たちはその技術・知識を公開せず、家伝として直系の家族あるいは門人にのみ、いわゆる「流」として伝えた。また家伝薬を製造販売する者も増えていった。
16世紀なかばヨーロッパとの交流が始まり、キリスト教とともに西洋医学も日本に伝わった。初めイエズス会の布教の一環につながる慈善事業として各地に病院を設けるなど、広範な庶民大衆に医療が行われた。しかし1560年(永禄3)イエズス会本部から医療事業禁止の方針が日本にも伝達され、さらに1587年(天正15)にはキリスト教が禁止される。そして、伝えられた医学は「南蛮流」として残り、とくに外科に影響を与えた。
[中川米造]
近世
17世紀初め江戸幕府が確立し、3世紀にわたって平和が続く。その大半の期間を鎖国したため、医学は独自の展開をみせる。開業医は増加し、流派も増え、大きな流派では私塾を設けて医師養成を行った。医師・医師志望者を対象とする医書出版も盛んになった。医学の理論としては、金元(きんげん)医学を継ぐ後世派(ごせいは)と、『傷寒論』など古典に依拠しようとする古方派、その中間を目標とする折衷派が現れた。古方派は少数の古典を精読するとともに、経験との照合、つまり実証的精神を重視した。このことが人体解剖への欲求となり、山脇東洋らの観臓と『蔵志』の刊行(1754)となる。さらに長崎を通して輸入された驚くばかりに正確なオランダ解剖図譜の訳出へと発展する。杉田玄白らによる『解体新書』の刊行(1774)を契機に蘭学(らんがく)は興隆し、蘭方医(らんぽうい)も増加した。一方、長崎ではオランダ通詞(つうじ)が早くから蘭方医学を理解しており、ここでも蘭方医の流派が生まれた。1823年(文政6)にはシーボルトが来日、日本の西洋医学の受容に大きな影響を与えた。
1858年(安政5)幕府は蘭方医伊東玄朴(いとうげんぼく)を奥医師に加え、蘭方を解禁した。この年、江戸近郊在住の蘭方医たちは、牛痘接種を行う種痘所を神田に設立し、西洋医学の情報交換の場として利用した。これが1861年(文久1)に幕府直轄の西洋医学所となる。他方、1857年(安政4)幕府は、長崎においてオランダ医官ポンペを教師にして、松本良順をはじめ日本人に西洋医学を体系的に教育させ、1861年には病院の長崎養生所を建設して本格的な導入を図った。
江戸時代も麻疹や痘瘡などの疫病がいくたびも大規模に流行したが、新しく外国から伝播したコレラも猛威を振るった。その最初は1822年(文政5)で、西日本を中心に流行し、人々はコロリとよんで怖れた。第2回目は1858年で、このときは西日本から江戸まで大流行した。その後も数回大流行をしているが、こうした日本人がまったく未経験の疫病の流行も、西洋医学導入の重要な動機と考えられる。
[中川米造]
近代
1868年(明治1)太政官は西洋医学の採用を布告した。明治政府はドイツ医学の採用を決め、1871年には東校(東京大学医学部の前身)にドイツ人軍医L・ミュラーとホフマンTheodor Eduard Hoffmann(1837―1894)を招いて教育体制の基礎をつくり、教育にあたらせた。しかし地方の医学校ではドイツ医学に限らず、オランダ、イギリス、フランスなどの医学を採用していた。ドイツ医学が優位性を確立するのは、1882年に、3名以上の医学士(当時は東京大学医学部卒業生のみ)を教師にもつ医学校の卒業生は無試験で医師免許を得られる、と定めたときである。日本が受容したドイツ医学は、自然科学的な研究室医学の傾向を強くもつものであった。明治政府は医学についてはある程度前向きの施策をとったが、医療についてみると、伝統的な漢方医学を医術開業試験などを通して非正統化していった。また近代医療の実践の場である病院に対しては、とくに西南戦争(1877)後の国家財政の破綻(はたん)もあり、国立・公立病院の設置運営を制限するなど公的責任を果たさず、その一方では、佐藤尚中(さとうしょうちゅう)による順天堂をはじめとする私立病院の設立にはなんの規制もしなかった。このことは、その後の日本の医療体制を著しく私的運営に偏ったものとした。
明治期を通じて日本に西洋医学はいちおう定着した。そして政府の富国強兵の方針の下に、医学・医療の体制と方針がつくられ、それは大正、昭和へと引き継がれる。第二次世界大戦まで打ち続く戦争のなかで、医学・医療は軍事的要請にこたえた。公衆衛生に関する施策が相次いで出されるが、それも軍事的、産業的な人的資源確保がその第一義であったし、厚生省の創設や社会保障としての健康保険法や工場法も同様の意図の下に進められた。そして一部とはいえ、細菌兵器の開発など、医学が兵器として人類殺傷の用途に供せられる事態まで生まれた。
[中川米造 2018年9月19日]
現代
第二次世界大戦後、健康権の具体的展開の局面として、医療の社会性が強調され、健康保険や公費医療による医療費の社会化も拡大した。また個々の医療技術も目覚ましく進歩した。しかし、医療の地域化、とくに地域内で医療保健施設に有機的な関連をもたせ、予防からリハビリテーションまで一貫性のある体制を組織するうえでは困難を抱えている。
また著しい生命科学の進歩と相まって、種々の倫理的問題が出現してきた。第一に移植医学の進展である。心臓移植は日本の文化的風土においてはなじみにくく、欧米と比較すると慎重であった。1997年(平成9)に臓器移植法が施行された後も1999年になるまで一例も行われなかった。その後は何例か行われているが、まだまだ十分議論が尽くされたとはいいがたいのが現状である。
生殖医学の進歩もさまざまな倫理的問題を生み出した。人工受精(人工授精)という方法は子供のできない夫婦に福音(ふくいん)をもたらしたが、夫以外の精子を用いる方法や、ほかの女性に妊娠・出産をしてもらう代理出産が技術的に可能になり、1996年にはヒツジの乳腺細胞1個から1匹のヒツジがつくりだされたこと(クローン技術)により、人間のコピーをつくることができる可能性まで出てきた。各国で人間のクローニングの研究には歯止めがかけられているが、生殖医学に関する倫理的問題を解決するには法的規制のみでは十分ではないだろう。
また、日本の医療が抱える大きな問題は、高齢化に伴う疾病構造の変化である。1971年(昭和46)の高齢化率(65歳以上人口が全人口に占める割合)は7%だったが、2008年(平成20)には22.1%と3倍以上に増えている。これに伴い、急性疾患よりも慢性疾患、癌(がん)、認知症といった疾患が増加し、これまで以上に多様な対応が必要となってきている。ストレスケア、緩和ケア、老人医療など多くの分野では、もはや医学は自然科学の応用の学としてあるのみでは成立しえない状況にある。今後は、心理学、社会学、文化人類学、哲学をはじめとする医学と関連性のある諸学問領域との強力な連携がますます重要性を増すだろう。そして、これからの医学は自然科学、社会科学、人文科学という分類を超えた新しい人間学として変貌していかなければならない。
[中川米造・中川 晶]
『中川米造著『医学をみる眼』(1970・日本放送出版協会)』▽『川喜多愛郎著『近代医学の史的基盤』上下(1977・岩波書店)』▽『酒井シヅ著『医学史への誘い――医療の原点から現代まで』(2000・診療新社)』▽『D・ジェッター著、山本俊一訳『西洋医学史ハンドブック(普及版)』(2005・朝倉書店)』▽『ケネス・F・カイプル著、酒井シヅ監訳『疾患別医学史1~3』(2005~2006・朝倉書店)』▽『ルチャーノ・ステルペローネ著、小川熙訳、福田眞人監修『医学の歴史』(2009・原書房)』▽『小川鼎三著『医学の歴史』(中公新書)』