富田郷(読み)とんだごう

日本歴史地名大系 「富田郷」の解説

富田郷
とんだごう

和名抄」高山寺本に「富田」と記し、「度无多」と読む。刊本には「止無多」と訓じている。ともに「とむだ」と読む。

新南陽市の富田がその遺名であるとする考えは諸書の一致するところであるが、郷の範囲については異説がある。「日本地理志料」は「百済王子琳聖、以推古帝十二年帰化、居富田里大内畠、子孫因称大内氏」という大内氏系図をあげて、富田と大内氏との関係を参考に供しているが、この系図そのものの真憑性に問題があるので、いまこの見解はとらない。さらに同書は「亘古市・徳山・川埼・政所・上村・下上村・小畑諸邑」とするが、「大日本地名辞書」は、大道理おおどうり(現徳山市)山中に源を発し、徳山湾に注ぎ込む富田川の流域一帯に分布する富田村(現新南陽市富田)加見かみ村・富岡とみおか(現徳山市中野・川上・川曲・上村・下上・四熊・小畑)の一帯を比定し、徳山は久米くめ郷に含める。


富田郷
とみたごう

現小浜市内に散在していた国衙領(幕府御料所)。文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写に「富田郷「国領」(朱書)百廿八町七反七十歩」とみえ、定田六町三反余(所当米四一石五斗余)・除田一二二町三反余。除田の内訳は寺田五町八反余(国分寺一反余・谷田寺一町余・性興寺三町七反余・性楽寺五反・楽音寺三反)・神田一四町一反余(熊野田五町五反余・賀茂社一町三反余・日吉社一町四反余・八幡宮三町一反余・同宮供田二町一反・若王子五反余)・別名九五町五反である。


富田郷
とみたごう

[現在地名]岩出山町下一栗・池月 上一栗

中世、玉造郡内の郷名として散見し、現岩出山町下一栗しもいちくり・上一栗地区に比定される。興国六年(一三四五)一一月四日、北畠顕信は多田左近将監に対して、顕信方につき戦功があれば「玉造郡内富田」郷などを安堵することを約している(「北畠顕信御教書」多田文書)。天文五年(一五三六)七月一三日、伊達稙宗大崎義直とともに、新田頼遠が拠る岩手沢いわてさわ城攻撃のため下野目の丸山しものめのまるやま館に布陣青塚あおづか(現古川市)から「富田・一栗」に至る二〇余郷に火を放った(伊達正統世次考)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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