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察度 さっと

大辞林 第三版の解説

さっと【察度】

非難。とがめ。 「すりや手を引いたといふて、-の有う筈もないぞよ/歌舞伎・お染久松色読販」

出典|三省堂大辞林 第三版について | 情報

朝日日本歴史人物事典の解説

察度

没年:察度46.10.5(1395.11.17)
生年:玉城8(1321)
琉球王国の黎明期に君臨したと伝えられる王。『中山世譜』(琉球正史のひとつ)によれば,沖縄本島の浦添間切謝名村に奥間大親を父として生まれ,母は羽衣伝説上の天女と伝承される。勝連按司(豪族)の娘と結婚し,察度1(1350)年に英祖王統に代わり中山王位を継承。これを察度王統と称する。察度王代における最大の功績は,中国(明朝)と正式な通交関係を樹立したことである。同23年,明の太祖洪武帝の招諭に応じた察度は弟の泰期を明に派遣し,朝貢貿易が始まった。それ以後,ほぼ毎年進貢し,さらには東南アジアや朝鮮との貿易にも力を入れた。この時代に琉球王国はアジア諸国と結び,世界史の舞台で中継貿易センターとしての性格を強めていき,日本商船も堺,対馬などから数多く来航するようになった。察度が浦添の牧港に来航した日本船に満載された鉄塊を買い取り,農民に鉄製農具を造らせて,人望を得たというエピソードが史書にみえる。

(真栄平房昭)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

察度
さっと
(1321―1396)

沖縄の三山(さんざん)時代の小国家の一つ中山(ちゅうざん)の王。貧農奥間大親(おくまうふや)と天女(てんにょ)の間に生まれた子と伝えられ、神号を大真物(おおまもの)と称した。鉄製農具を普及させるなどの功により人心をつかみ、浦添按司(うらそえあんじ)となった。1350年、中山王の世子を廃して自ら中山王となり、新しい王統(察度王統)を開いた。72年、明(みん)の太祖洪武帝(こうぶてい)の招諭に応じて弟泰期(たいき)を遣わし、中国との間に初めて進貢関係を樹立した。この関係は以後500年余にわたって存続し、中国と沖縄(琉球(りゅうきゅう))の深い結び付きを促すこととなった。中国との間には外交・貿易策のほか、1392年には官生(かんしょう)(留学生)派遣制度も開始するなど関係強化に努めている。一方、南蛮(東南アジア)諸国との貿易や高麗(こうらい)およびその滅亡後に建国された李氏(りし)朝鮮との間にも貿易を展開している。中継貿易基地として発展する中山には、堺(さかい)・博多(はかた)・対馬(つしま)などの日本商船も来航した。これにより中山の勢力は他の小国家(山南(さんなん)、山北(さんほく))に比べて優位となったが、余勢を駆って統一国家を建設するには至らぬまま、1396年に没した。[高良倉吉]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

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