改訂新版 世界大百科事典 「寧波の乱」の意味・わかりやすい解説
寧波の乱 (ニンポーのらん)
1523年(大永3,明の嘉靖2)中国浙江省寧波でおこった争乱。室町時代中期以後,遣明船派遣の権利は細川氏と大内氏によって争われていたが,両者の抗争が極点に達して爆発したのが寧波の乱である。1519年(永正16)ころ,大内氏の遣明船派遣計画が具体化すると,それと対抗する形で細川氏の派遣計画も熟した。大内氏は豊前池永で遣明船3隻を艤装し,正徳勘合1,2,3号を与え,宗設謙道と月渚永乗とを正・副使とし,彼らの船は23年の4月に寧波に到着した。一方,細川氏は幕府に強請して,すでに無効になっていた弘治勘合を入手し,鸞岡瑞佐を正使とし,明人宋素卿をこれに付け,南海路をとって入明させた。細川船は大内船よりも数日おくれて寧波に着いたが,素卿の暗躍により,規定に反して大内船よりもさきに貨物を陸揚げさせて東庫における点検をすませ,そのうえ嘉賓館における席次も鸞岡を宗設の上位におかせることにしてしまった。これに憤激した宗設らは,5月1日東庫から武器を持ち出して鸞岡を殺し,素卿らの船を焼き,さらに素卿を追って紹興の城下に至った。素卿は府衛に守られて青田湖に退避した。宗設らは寧波に帰り,沿道で放火乱暴し,指揮袁璡を捕らえ,船を奪って海に出た。都指揮劉錦はこれを海上に追って戦死。その後,素卿は投獄されて獄死した。25年,明では琉球の使臣に託して,室町幕府に対して反乱の張本となった宗設の引渡しと袁璡の返還を要求した。幕府はこれに対し,30年(享禄3)に,正徳勘合は賊に奪われたために弘治勘合を使用したとし,鸞岡らが正使であったなどと弁明して新勘合の賜与を請求した。一方,大内氏は明に対して,日明貿易における大内氏の特殊的な地位を釈明し,この年ふたたび幕府に対して遣明船の特権の確認をもとめ,その権利を手中にした。以後,遣明船は大内氏の独占下に運営されるようになった。
→日明貿易
執筆者:田中 健夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報