寺島宗則(読み)テラジマムネノリ

デジタル大辞泉 「寺島宗則」の意味・読み・例文・類語

てらじま‐むねのり【寺島宗則】

[1832~1893]幕末・明治の外交官政治家薩摩さつまの人。薩英戦争ののち渡英。明治維新後、外務卿として樺太千島交換条約を結び、条約改正交渉にも尽力。

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精選版 日本国語大辞典 「寺島宗則」の意味・読み・例文・類語

てらじま‐むねのり【寺島宗則】

  1. 幕末・明治の政治家。薩摩(鹿児島県)の人。一時、松木弘庵と称す。薩摩藩留学生を引率して渡英、帰国後幕府・雄藩連合による国家統一を提唱。維新後外国事務掛、のち外務卿となり、条約改正とくに関税自主権の回復をめざした。天保三~明治二六年(一八三二‐九三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「寺島宗則」の意味・わかりやすい解説

寺島宗則
てらしまむねのり
(1832―1893)

幕末~明治期の政治家。「てらじまむねのり」ともいう。天保(てんぽう)3年5月23日、薩摩(さつま)藩郷士(ごうし)の家に生まれる。医家松木家の養子となり弘安(こうあん)(弘庵、弘菴)と称す。明治維新後に寺島陶蔵(とうぞう)と改名。蘭学(らんがく)を修めて藩医となり、招かれて蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授手伝、遣欧使節に随員を志願、西洋諸国を視察。1863年(文久3)帰藩して御船奉行(おふねぶぎょう)となる。薩英戦争ののち、1865年(慶応1)藩留学生を引率して再度渡欧し、雄藩連合による封建制変革を藩庁に進言する一方、イギリス外相クラレンドンには幕府の貿易独占を非難し、藩との直接貿易を申し入れ、薩英友好、倒幕促進に貢献。明治新政府成立後は参与などに就任、外交担当の開明派官僚として排外事件の難局を処理、西洋文明導入に尽力した。外務大輔(たいふ)を経て1873年(明治6)征韓論争直後、参議兼外務卿(きょう)に就任、条約改正交渉に着手、アメリカとの間で関税権回復に成功したが、他の列強の承認を条件とされたため条約を発効させえなかった。このほかロシアとの間に樺太(からふと)・千島交換条約を締結、1879年辞任ののちは、政界第一線から退き、元老院議長、枢密院副議長などを務め、伯爵に叙せられている。学者肌で、とくに語学には堪能(たんのう)であった。明治26年6月6日没。

[田中時彦]

『寺島宗則研究会編『寺島宗則関係資料集』上下(1987・示人社)』『犬塚孝明著『寺島宗則』(1990・吉川弘文館)』

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「寺島宗則」の解説

寺島 宗則
テラジマ ムネノリ


肩書
外務卿,枢密院副議長

別名
幼名=徳太郎 別名=松木弘安 出水泉蔵 松木弘庵 前名=寺島 陶蔵

生年月日
天保3年5月23日(1832年)

出生地
薩摩国知泉郷(鹿児島県)

経歴
天保7(1836)年、伯父・松木宗保の養子となり、弘化2(1845)年松木家を継いで弘安と名乗る。翌年藩命を受けて江戸で医学を学ぶ。万延元(1860)年幕府の蕃書調所教授となり、文久2(1862)年福沢論吉らと遣欧使節に随行して渡英、2年間ロンドンに滞在。帰国したが攘夷党の勢力が強く藩に帰れず、松木弘庵と変称して幕府に仕え、開城所教授を務めた。慶応2年から寺島姓に改名、当初陶蔵と称した。明治元年新政府の参与外国事務掛を命ぜられ同年日西・日独通商条約調印の全権に参加。神奈川県知事を経て2年外務大輔。5年駐英大弁務使となった。次いで特命全権公使、6〜12年外務卿、文部卿、法制局長、元老院議長を経て15年アメリカ駐在公使。17年宮内省出仕に補せられ、伯爵となった。18年宮中顧問官、19年枢密顧問官、さらに24年枢密院副議長を歴任。一方、幕府蕃書調所在職中、島津斉彬に従って電信の実用化と実験に従事、2度の渡欧で電信の効用をつぶさに体験、この道の先達となった。神奈川県知事時代の明治2年京浜間に最初の電信事業を開業させた。また安政6年以来、横浜、神戸、長崎にあった英米仏各国の郵便局を明治8〜13年にかけ次々撤去させ郵便行政権を確保、植民地化の魔手を切除した。この間、わが国を万国郵便連合万国電信連合に加盟させるなど、電信・郵政事業に並々ならぬ力量を発揮、“電信の父”といわれた。

没年月日
明治26年6月6日

家族
父=長野 成宗(=祐照 薩摩藩士) 養父=松木 宗保 長男=寺島 誠一郎(貴院議員)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「寺島宗則」の意味・わかりやすい解説

寺島宗則 (てらじまむねのり)
生没年:1832-93(天保3-明治26)

明治前半の外政家。薩摩藩郷士長野祐照(すけてる)の次男として生まれ,伯父松木宗保(医家)の養嗣子となる。弘庵(弘安)ともいい,のち寺島陶蔵と改名,宗則と称した。早くから蘭法医学を学び,20歳で薩摩藩医となった。1856年(安政3),幕府の蕃書調所の教授方手伝となり,61年(文久1)12月,幕府の遣欧使節に通訳兼医師として,福沢諭吉,福地源一郎らと随行した。63年7月の薩英戦争では五代友厚(才助)とともに捕虜となり,横浜に護送されたが,イギリス側の黙許のもとに脱艦した。65年(慶応1),薩摩藩留学生として渡英,西南雄藩中心の自由貿易主義に立った変革構想をイギリス外相クラレンドンに語り,これは,同外相より駐日イギリス公使パークスへの指示になったという。明治新政府にあっては外交問題の処理に当たり,明治6年(1873)10月の政変後,副島種臣のあとをうけて参議兼外務卿となり,1875年,ロシアと樺太・千島交換条約を結んだ。条約改正問題では,まず関税自主権をえることを急務とし,76年からアメリカと交渉し,78年その同意をえたものの,イギリスなどの反対にあい成功しなかった。79年文部卿となり,のち法制局長官,元老院議長,駐米公使,枢密顧問官,同副議長,宮中顧問官などを歴任した。読書を好み,学者肌の政治家だった。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「寺島宗則」の解説

寺島宗則

没年:明治26.6.6(1893)
生年:天保3.5.23(1832.6.21)
幕末の蘭学者,明治前期の政治家,外交官。薩摩国出水郷脇本(鹿児島県阿久根市)の郷士長野祐照,秋野夫婦の次男。幼くして伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり松木弘安と称した。10歳より蘭語学習を始め,15歳で江戸に遊学し川本幸民らに蘭学を学ぶ。伊東玄朴の象先堂塾頭を経て,安政3(1856)年幕府の蕃書調所教授手伝となるが,薩摩(鹿児島)藩主島津斉彬の要請で翌年帰藩,製鉄,造船,ガス,写真,電信などの藩近代化事業に携わり,西洋文明技術の実際を会得する。蕃書調所教授手伝に復職後の文久1(1861)年12月,第1回幕府遣欧使節に 傭医師兼翻訳方の資格で随行,慶応1(1865)年3月には薩摩藩遣英使節の一員として出水泉蔵の変名で留学生を率いて渡英。2度にわたる西欧体験から雄藩連合政権を主体とする統一国家構想を説く。維新後は外国官判事,外務大輔などを歴任,創業期の外務省の整備充実に尽力,電信事業や造幣事業にも大きな功績を残した。駐英公使を経て明治6(1873)年10月参議兼外務卿に就任すると懸案の条約改正問題に着手,11年税権回復に関する日米約書の調印に成功したが,英独の反対で条約は無効となった。相互対等の論理に裏打ちされた外交姿勢は,欧米に対する自主外交,アジアに対する条理外交として評価される。その後元老院議長,枢密院副議長などの要職を歴任,17年伯爵。人となり深沈寡黙,経済にも一見識をもつ優れた政論家であった。<参考文献>寺島宗則研究会編『寺島宗則関係資料集』全2巻,犬塚孝明『寺島宗則』

(犬塚孝明)

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百科事典マイペディア 「寺島宗則」の意味・わかりやすい解説

寺島宗則【てらじまむねのり】

明治の外交官。薩摩(さつま)鹿児島藩出身。松木弘庵(こうあん)とも。藩医であったが,幕府の蕃書調所教授手伝となり,1861年の幕府の遺欧使節に福沢諭吉らと随行。のち鹿児島藩留学生として渡英。明治政府では,参与,外国事務掛,神奈川府判事を歴任。副島種臣のあとをうけ1873年―1879年外務卿。樺太・千島交換条約条約改正では対米関税自主権回復交渉などを担当。
→関連項目五代友厚幕末遣外使節

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寺島宗則」の意味・わかりやすい解説

寺島宗則
てらじまむねのり

[生]天保3(1832).5.23. 鹿児島
[没]1893.6.6. 東京
外交官,政治家。文久2 (1862) 年,遣欧使節に加わり,ロンドンに2年間滞在した。帰国後,幕府に仕え開成所教授となるが,明治維新後は新政府に出仕。参与外国事務掛,神奈川府判事,神奈川県知事,外国官判事などを経て,明治2 (69) 年外務大輔となった。その後駐英大弁務使を経て,1873年には朝鮮問題で下野した副島種臣に代り外務卿に就任。樺太=千島交換条約の締結,江華島事件の処理などにあたった。懸案の条約改正交渉では法権ならびに税権双方の同時回復は困難とみて,法権回復をとりあえずたなあげとし関税自主権の回復に全力を注いだ。 78年アメリカの治外法権を確認する一方,日本の関税自主権回復を承認させた日米約定 (吉田=エバーツ協定) を締結するが,おりからのイギリス人アヘン密輸入事件や検疫規則拒絶事件で,法権回復放棄に対する批判が強まり,79年引責辞職,日米約定は実施にいたらなかった。その後文部卿,法制局長,元老院議長,駐米公使などを歴任し,晩年は宮中顧問官,枢密顧問官,枢密院副議長などをつとめた。伯爵。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「寺島宗則」の解説

寺島宗則
てらしまむねのり

1832.5.23~93.6.7

幕末~明治前期の外交官。伯爵。鹿児島藩の郷士の家に生まれる。一時,伯父松木家の養子となり弘庵(安)(こうあん)と名のった。蘭方医学を学び,島津斉彬(なりあきら)の侍医,蕃書調所の教官を勤めた。幕府の遣欧使節に随行。薩英戦争で五代友厚とともにイギリス艦に捕らえられ和議に尽力。1865年(慶応元)鹿児島藩留学生を率いて渡英。明治政府に出仕し,外務大輔・駐英公使などをへて,73年(明治6)参議兼外務卿となり,樺太・千島交換条約と日朝修好条規の調印,アメリカとの条約改正交渉の推進など,明治初期の外交の中心人物として活躍。79年文部卿に転じ,元老院議長・駐米公使・宮中顧問官・枢密顧問官・同副議長などを歴任。憲法草案審議にもあたった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「寺島宗則」の解説

寺島宗則 てらじま-むねのり

1832-1893 幕末-明治時代の武士,外交官。
天保(てんぽう)3年5月23日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。蘭学をまなび,幕府の蕃書調所教授手伝となり,文久元年第1回幕府遣欧使節の随員として渡欧。維新後,外務大輔(たいふ),駐英公使をへて明治6年参議兼外務卿となり,条約改正交渉にあたる。のち元老院議長,枢密院副議長などを歴任。明治26年6月6日死去。62歳。本姓は長野。前名は松木弘安(こうあん),寺島陶蔵。変名は出水泉蔵。

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旺文社日本史事典 三訂版 「寺島宗則」の解説

寺島宗則
てらじまむねのり

1832〜93
明治時代の政治家・外交官
薩摩藩出身。1862年幕府遣欧使節として随行,'65年薩摩藩留学生として渡英。その間'63年薩英戦争の際,英国捕虜となるも脱走。明治新政府では1873〜79年外務卿となり,樺太 (からふと) ・千島交換条約,日朝修好条規などを成立させた。また関税自主権回復を目標に条約改正の交渉にあたったが失敗。のち文部卿・枢密顧問官などを歴任した。

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