改訂新版 世界大百科事典 「幕末遣外使節」の意味・わかりやすい解説
幕末遣外使節 (ばくまつけんがいしせつ)
江戸幕府が開港以降に,外交交渉のために外国へ派遣した使節。(1)1860年(万延1),日米修好通商条約本書の批准交換のためアメリカへ派遣。正使は外国奉行新見正興,副使は同村垣範正,監察は目付小栗忠順(ただまさ)で,随員のほか佐賀,仙台,長州,土佐,熊本の諸藩士など全体で80名余。一行は60年2月9日(安政7年1月18日),米艦ポーハタン号で品川を発し,ホノルル,サンフランシスコを経てパナマに至り,汽車で地峡を横断,再び乗船してワシントンに到着した。5月22日,国務長官カスとの間に批准書を交換したのち,ニューヨークからナイアガラ号に乗り,喜望峰を経由して60年11月8日(万延1年9月28日)に帰国。なお使節と同時に,木村喜毅を提督とし,勝義邦を艦長とする咸臨丸が,太平洋を渡った。(2)1862年(文久2),両港(兵庫,新潟)・両都(江戸,大坂)の開港開市期日の延期交渉のため,ヨーロッパへ派遣。正使は外国奉行竹内保徳,副使は同松平康直,監察は目付京極高朗で,福地源一郎,立広作,寺島宗則,箕作秋坪,福沢諭吉など30名余が随行。62年1月21日(文久1年12月22日),英艦で品川を発した一行は長崎,香港,シンガポール,セイロンに寄港し,スエズを陸路で地中海へ出て,4月パリに入った。フランスとの交渉は意のごとく進まなかったので,5月イギリスへ赴き,6月6日に両港・両都の開港開市を63年1月1日より起算して5年間延期するという内容のロンドン覚書を締結した。その後,オランダ,プロイセン,ロシア,フランス,ポルトガルを訪れ,63年1月28日(文久2年12月9日)帰国。(3)1864年(元治1),横浜鎖港交渉のためフランスへ派遣。正使は外国奉行池田長発,副使は同河津祐邦,監察は目付河田熈で,随行は約30名。64年2月6日(文久3年12月29日),品川を発し,62年の使節とほぼ同じ経路で4月パリ着。鎖港交渉が成功しなかったため他国へ赴くことは中止し,6月20日にパリ約定に調印したのち,8月23日(元治1年7月22日)帰国。幕府は使命の不達成を理由に使節を処罰し,パリ約定を破棄した。(4)そのほか,1865年(慶応1)横浜製鉄所建設の件で外国奉行柴田剛中をパリへ,66年樺太の日露境界の確定交渉のため外国奉行小出秀実をペテルブルグへ,67年万国博覧会列席のため徳川昭武をパリへ派遣している。
執筆者:小野 正雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報