寺津村(読み)てらづむら

日本歴史地名大系 「寺津村」の解説

寺津村
てらづむら

[現在地名]西尾市寺津町

市の南西に位置し、北から南に続く台地村と新田低地よりなる。平坂へいさか入江を経て小栗おぐり新田に対する。古書には「臥蝶」と記す。村名の由来に三説あり、一は幡豆はず大川おおかわ郷が天川となり寺津に変わるといい(三河志)、二はむかし願成がんじよう寺の北を寺津とよんだところから生じたといい、三は巨海こみの出郷であるところから、船は寺を目標に入り来り、舟人寺津と称したところから起こるという(寺津村誌)。小字枯木かれき田地山でんじやまから巨海村若宮西わかみやにしにかけて枯木宮かれきのみや貝塚が広がる。

永正年中(一五〇四―二一)備中守貞綱があり、臥蝶がちよう地頭と称した(宗長手記、重編応仁広記)。臥蝶とは、寺津の荘名と思われる。「尾張名所図会」に「参河国臥蝶の地頭、大河内備中守貞綱は、吉良の被官なりしが、威を振ひ駿河の今川氏親と合戦す。大河内氏は尾張の斯波義達に援を乞ひて、遠江の引馬の城に楯籠る。


寺津村
てらづむら

[現在地名]天童市寺津

しら川・立谷たちや川を合流した川が最上川に合流する直前に大きく湾曲し、その湾曲部の北西岸に船場集落として発達した。湾曲部の丸淵まるぶち河岸は現在三日月湖として残る。東は水田地帯を隔てて高擶たかだま村、南は中野目なかのめ(現山形市)。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録では高一千六一一石余。正保郷帳では田方一千二〇二石余・畑方四〇八石余。正式に最上川の河岸として認可されたのは、大石田おおいしだ河岸(現北村山郡大石田町)の川船差配の独占が廃止され、新たな川船差配制が施行された享保八年(一七二三)からである。以来問屋・船持・船頭水夫・馬士などの運送業従事者も多くなった。宝暦八年(一七五八)の商人荷物の積船は寺津船が四五パーセントを占め、天明八年(一七八八)の上郷船一一〇艘のうち寺津船は二一艘で、大石田河岸に次ぐ繁栄を示している(天童市史編集資料)


寺津村
てらづむら

[現在地名]大沢野町寺津

神通川が庵谷いおりだに峠に遮られ東へ大きく迂回して出た下流東岸に位置し、北は町長まちなが村、南は薄波うすなみ村、対岸婦負ねい郡庵谷村(現細入村)。天正一三年(一五八五)閏八月一三日の佐々成政知行方目録(土佐国蠧簡集残篇)に「寺すむら」とあり、八四俵とされる。正保郷帳では高六八石余、田方九反余・畑方三町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高七七石、免三ツ二歩、小物成は春秋夫銀三四匁五分・山役三五匁・牛役三三匁・鱒役一五匁・鮎川役一五匁(三箇国高物成帳)


寺津村
てらづむら

[現在地名]八束町寺津

二子ふたご村の東に位置し、北は中海に面する。大根だいこん島七ヵ村の一つで、後分に属する。寛永八年(一六三一)の大根島御検地帳に村名がみえ、当村は二子村と一括して記載される。元禄一三年(一七〇〇)の大根島検地帳(八束町役場蔵)では当村の反別は畑一一町四反余で、田はない。名請人三一。宝暦一三年(一七六三)の大根島万指出帳(同役場蔵)では家数二五・人数一二五、船数六。


寺津村
てらづむら

[現在地名]金沢市寺津町

駒帰こまがえり村の南、犀川上流東岸に位置し、地内石島いしじまには寺津用水の取水口がある。正保郷帳では高七二石余、田方九反余・畑方三町八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高七六石・免五ツ六歩で、ほかに山役一七五匁・蝋役一匁・漆役一匁・綿役一匁・炭役四二匁の小物成があった(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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