寺脇村(読み)てらわきむら

日本歴史地名大系 「寺脇村」の解説

寺脇村
てらわきむら

[現在地名]伊集院町寺脇、東市来ひがしいちき町寺脇

野田のだ村の西に位置する。西部を野田川が南流し、神之かみの川に合流する一帯に広い水田が開けている。出水いずみ筋と同筋から分れ野田村に至る道(郡山別往還)が通る。

〔中世〕

薩摩国建久図田帳に「寺脇八町」とみえ、大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)領の万得領で、名主は薩摩国在庁官人の大前道友であった。しかし当時大隅正八幡宮と島津庄側とは当地の帰属をめぐって相論中であった。鎌倉時代後期と推定される薩摩伊集院分造宇佐宮用途支配注文(島津家文書)によれば、寺脇は豊前宇佐宮造営用途三六疋・人夫食料米八斗三合五勺を賦課されている。


寺脇村
てらわきむら

[現在地名]青山町寺脇

岡田おかだ村の西北に位置する。古代―中世にかけては上津阿保こうづあお村・阿保庄の一部を形成していた(→阿保庄。元禄八年(一六九五)内検を改めている。本高三〇四・三三石、平高二七〇・二八石。寛延(一七四八―五一)頃の戸数三三、人口一四八、馬八。


寺脇村
てらわきむら

[現在地名]橋本市東家とうげ・東家一―六丁目

紀ノ川北岸、東家村の西にある。「続風土記」は「村中に妙楽寺といふ古寺あり、村居其脇にある故に名とす」と記す。慶長検地高目録には「東家寺脇村」とみえ、東家村と一村扱いであった。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では寺脇村は村高一四九石余、小物成は茶八斤余、紙木一八束半、桑一束で九斗五升五合、家数四三、人数一八三、牛七、馬一三。「続風土記」が「村中戸数三箇一は逆旅・商賈・駕夫の類なり」と記すように、橋本川沿いに通る高野街道に面し、橋本町に近いこともあって町家が軒を並べていた。


寺脇村
てらわきむら

[現在地名]浜松市寺脇町

三島みしま村の南、馬込まごめ川下流左岸に位置。天正一九年(一五九一)一一月二〇日の四拾七村惣高辻書上(横山家文書)に寺脇として五九九石余とある。松平忠頼領郷村帳に寺わき村とみえ、高三五三石余、田六町八反余・畑四〇町二反余、うち川成堤敷八石余。


寺脇村
てらわきむら

[現在地名]設楽町東納庫ひがしなぐら

名倉なぐら川右岸にあり、対岸大平おおひら村。慶長八年(一六〇三)の検地を受け、石高七七石余を検出。幕末戸口は一三戸・七八人(北設楽郡史)

集落の中央、比高約二〇メートルに寺脇城跡がある。西南に大手門跡があり、付近に城主の墓と伝える五輪塔二基、宝篋印塔二基がある。「三河国二葉松」に「名倉之内寺脇城 後藤弾正」とある。


寺脇村
てらわきむら

[現在地名]清里村寺脇

三墓みはか山の南麓にあり、南西櫛池くしいけ川が流れる。東は戸野との村、西は櫛池川を挟んで鈴倉すずくら村と接する。正保国絵図に高三五石余とある。天和三年郷帳に「寺ノ脇村」と記され高二五石六斗余、うち山高二石六斗四升とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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