中国古代に行われた支配制度。周が殷を滅ぼした後,東方地域を支配するために行った。封とは支配すべき領域の境界を定めること,建はその領域に国を建てること。周王は一族や功臣に領地とその住民を支配させて諸侯とし,諸侯を統制することによって全土を支配しようとした。その統制力は任命権と宗法とよばれる血縁関係によって保たれた。とくに軍事上,交通上の要衝の衛・邢・燕・曹・魯などには周の同族中の有力者を配置した。西周の金文によると,諸侯は封建に際して,祭祀権の象徴である青銅器,軍事権の象徴である弓矢を与えられ,土地(耕地以外の山川や集落も含む)の支配を許される。そして支配すべき民の種類と人数が示される。民は3種に大別され,第1は侯国の中核となるもので,兵役の負担を課せられる。第2は車馬の管理や技術的任務あるいは下級官職を任務とするもので,伯とよばれる小頭領に率いられる。第3は在地の農民で,主として租税徴収の対象である。しかし,領主のこれら民に対する具体的な支配権の内容は不明であり,また耕地以外の山川の経済的収奪の実態なども不明である。以上は侯とよばれるものである。小規模なものとして,伯,男があり,在地土豪の従来からの支配権を認めたもの,あるいは小規模な耕地のみの支配権を認めたもので,周王直轄領内,諸侯領内にも存在した。これらの諸侯,領主は,義務として周王室の祭祀・征討などに従事し,王朝の官職に任命されたが,官職に就くことによって,下級の役人を支配し,収入を得ることができた。しかしこれは,のちに周王朝の政治機構を弛緩させ,周王朝の収入をも減少させて,王権を衰退させる原因となった。とくに世代を経過するうちに,血縁意識が薄らぎ,宗法原理による諸侯に対する統制力も失われた。この封建制度は,春秋中期まで一応維持されたが,以後崩壊するとともに,諸侯領内では諸侯による直接支配の傾向があらわれ,秦・漢時代の郡県制の萌芽が見られるようになる。
なお,中国におけるこの〈封建〉の語義から転じて,広く各国の中世における封土関係によって成立した支配体制を〈封建制度〉などの名で呼ぶ。
→封建制度
執筆者:伊藤 道治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…ただ周以前の秦一族の来源については,その祖先が西方異民族であったとする説と,最初は山東省付近にいてやがて西へと移住していったという説の2説がある。前770に周の平王が,周室を助けたという功績により,秦の襄公(前777‐前766)に岐山以西の土地を与えて封建したことでもって周王朝下の諸侯の一員となる。文公(前765‐前716)のときには,汧水(けんすい)と渭水が合流する付近に都を置いたが,勢力の拡大とともに春秋時代には平陽(陝西省岐山県南西),雍(よう)(陝西省鳳翔県南)に置かれた。…
…人は“万物の霊”であり天地間にあるもので“人より尊きはなし”というのは西洋の近代思想の反映であり,明治新政の原則であった“四民平等”の精神と表裏をなしています。この近代ヒューマニズムの主張が,一方において封建制度を打破する力として働きながら,他方“神州”の信仰と何の矛盾もなく結びつき……〉。日本の代表的知識人の言葉として,これはまことに奇怪千万といわねばならない。…
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【定義・用法】
〈封建〉の語は,もともとは中国周代の国家制度を指す語であったが,現在日本の学術用語では,この意味で〈封建制度〉の語が用いられることはほとんどなく,ヨーロッパのフューダリズムの訳語として転用されている。この後者の意味での用語法も学者によって一様ではなく,やや極言すれば,それぞれの学者が多少とも異なった意味でこの語を用いている。…
※「封建」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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