尊勝寺跡(読み)そんしようじあと

日本歴史地名大系 「尊勝寺跡」の解説

尊勝寺跡
そんしようじあと

京都市左京区岡崎最勝寺おかざきさいしようじ町・同西天王にしてんのう町の西部地域に位置した寺。六勝りくしよう寺の一。法勝ほつしよう寺の西に、方四町の寺地を有した。「明月記」建暦二年(一二一二)一〇月四日条に「自成勝寺西二条尊勝寺南大門前東行」とみえ、南大門が二条大路に面し、さらに「山槐記」応保元年(一一六一)七月七日条に「大炊御門東行、尊勝寺東大路南行」とあり、北境が大炊御門おおいのみかど大路に面していたことがわかる。東境の法勝寺との間にはのちに方一町の最勝寺が建立された。発掘調査は昭和三四年(一九五九)、四七年、四八年、五一年、五二年、五三年の六度実施され立会い調査も数次にわたって行われた。遺構として建物二棟、貼石のある南北方向の溝、井戸、灌頂堂跡、西限の築地、阿弥陀堂跡が発見され、瓦・土器・土塔などが大量に出土、軒瓦だけでも五〇〇余種に及んでいる。調査の結果、現京都会館および隣する疏水上に南北に南大門・中門・金堂・講堂などの主要伽藍が配置されていたと考えられる。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔創建〕

康和二年(一一〇〇)に堀河天皇の御願寺として造営が計画され、同年三月二七日に造作始めの日時を勘申(中右記)、七月二五日には仏像の造立を開始(為房卿記)、八月八日に木作始めが行われた(中右記)。造仏始めには大仏師円勢以下、小仏師一三〇人が参列したとも(同書)、仏師八〇人、小仏師一二〇人が参列したともいうが(元亨四年具注暦裏書)、その仏師たちは法勝寺の西に仮屋を建て造仏にあたっており(為房卿記・元亨四年具注暦裏書)、このときの仏師たちの作業場がのちの最勝寺の寺地となった。

尊勝寺跡
そんしようじあと

[現在地名]三隅町室谷

大麻たいま山頂の南東、大麻山たいまさん神社南西の標高五〇〇メートルに寺屋敷跡が残る。大麻山神社の別当寺真言宗であったという。大麻山縁起(大麻山神社蔵)によると、貞観(八五九―八七七)の頃には大麻山を双子ふたご山と称し、異僧が来て双子山を開き尊勝陀羅尼を誦し、里人を教化したのに始まると伝える。天暦三年(九四九)山叟を開山として寺坊を建立し、尊勝寺を号したという。中世には大麻山一山が、吉野金峯山から飛来したという蔵王権現を主神として祀る修験道の山として栄えたとみられる。当寺住職は建久五年(一一九四)権大僧都良雄を初代とし、明治一九年(一八八六)廃絶まで二五代とされる。大永三年(一五二三)尼子経久と大内氏との合戦の際、戦火のため堂宇ことごとく灰燼に帰し、さらに天文三年(一五三四)にも火災に遭ったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報