小南村(読み)こみなみむら

日本歴史地名大系 「小南村」の解説

小南村
こみなみむら

[現在地名]野洲町小南

高木たかぎ村の北西、日野川(仁保川)南岸にある。日野川と支流光善寺こうぜんじ川が合流し、朝鮮人街道が渡河する地点の東西に広がる。集落はほぼ中央にある字さとうちに集中するが、その南方の字皆込かいごめおよび朝鮮人街道沿いの字街道にも集落がある。近年まで条里地割とともに字廿にじゆ廿一にじゆいちの条里呼称も残る。

応永年間(一三九四―一四二八)作成の江辺庄御名々帳(木村盛美氏所蔵文書)に「小南 又八入道」「小南 助三郎入道」のほか、当地の「衛門四郎加ち」などの名がみえる。同三三年七月一〇日の借銭状(熊野那智大社文書)によれば、行正坊が「東おうミこみなミせんたち大ゆう坊」など三名の先達を抵当に二貫五〇〇文を借りている。第二次六角氏征伐の際、武田伊豆守は「江州小南小村」に陣を置いた(「蔭涼軒日録」延徳四年六月一二日条)


小南村
こみなみむら

[現在地名]東庄町小南・宮野台みやのだい

粟野あわの村の南東に位置し、南西は夏目なつめ村。永徳二年(一三八二)閏正月二八日の鎌倉府奉行某奉書(黄梅院文書)に東庄小南郷とみえ、鎌倉円覚寺に一〇年間にわたり料所として預け置かれることとされているが、同三年には勝福しようふく寺に寄進されている(一二月二〇日「鎌倉公方足利氏満寄進状」東慶寺文書)。勝福寺は年未詳閏七月一三日の恵釼書状(金沢文庫文書)にみえる上代かじろ勝福寺と思われる。千葉氏の支流東氏一族の海上胤方の子で伯父東胤行の養子となった盛胤は、東庄小南沼闕ぬまかけ城に居住したという(千葉大系図)城山しろやま一帯には空堀・土塁などの遺構が残る。「下総名勝図絵」は布掛ぬのかけ城跡とし、千葉東六郎の代々の居城としている。


小南村
こみなみむら

[現在地名]大佐町小南

布瀬ふせ村の北に位置し、小坂部おさかべ川が流れる。大永三年(一五二三)七月三日の新見兵庫助宛平直久等連署申状(竹田家文書)に「御知行分小ミなミ」とみえる。江戸時代には北の永富ながとみ村・小坂部村の一部で、天保郷帳までの郷帳類にはみえない。「備中村鑑」に村名がみえ、高三〇〇石、旗本水谷銕三郎領。旧高旧領取調帳では三八〇石余、同水谷弥之助領。用水は小坂部川から引水する乗越のりこし溝に依存。

永禄年中(一五五八―七〇)から毛利氏の部将として活躍した楢崎弾正忠元兼の拠城周防すわ城跡がある。城は神宮寺じんぐうじ山塊の一つの尾根を利用して築かれたもので、東・南・西は急峻な斜面で天然の要害をなし、小坂部平野を眼下におさめることのできる要地である。


小南村
こみなみむら

[現在地名]下津町小南

しも村の南東に位置する南北に長い村で、南は白倉しらくら山の山地が占める。東はなか村。「続風土記」は「下村の少し南にあり、故に小南といふ」とあるが、近世初期までは下・梅田うめだ・小南は一村で小南下村と称した(→下村。村内北を加茂かも川が西流し、集落はこの加茂川に沿う加茂谷にある。

小南下村は慶安年中(一六四八―五二)三村に分れた。加茂組に属し、宝暦三年(一七五三)改めの加茂組書上(小松原区有文書)によると小南村は本田畑高二七六・一四二石、新田畑高九・六三二石、開起田畑〇・一三五石、合計二八五・九〇九石、戸数八〇、人数三二六とある。


小南村
こみなみむら

[現在地名]柏原町小南

東は柏原川を挟んで柏原町と境を接する。古代から神奈備山として崇拝されている小南山(二三一・七メートル)の南東麓に形成された小集落で、同山西方の恩鳥おんどり坂を越えると、柏原町しも町の出戸下町沖田おきた挙田あぐた村などを経て播磨方面に通じる。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高一二九石余・畠高一七石余、芝山あり、日損少し。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)幕府領となり、延宝五年(一六七七)の柏原町山方図(柏原町歴史民俗資料館蔵)でも同領。


小南村
こみなみむら

[現在地名]大和郡山市小南町・南井みなみい

田中たなか村東南に所在。環濠集落。西大寺田園目録(西大寺文書)に「添下京南四条三里十四坪(中略)字コミナミ」と記す。慶長郷帳の村高は六九四・六五石(のち六九四・六五四石に修正)。慶長六年(一六〇一)以降小泉藩(片桐貞隆)領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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