小又村(読み)こまたむら

日本歴史地名大系 「小又村」の解説

小又村
こまたむら

[現在地名]森吉町小又

北流する阿仁あに川中流右岸、西流する小又川が合流する所に位置する。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「四百拾弐石壱斗五升弐合 こまた村」とみえる。中世後期を通じ嘉成氏領であったが、戦国期に入り安東(秋田)氏領に包摂される。当時の村域は小又川の上中下流域一帯で、江戸初期もそれを継承、正保四年(一六四七)の出羽一国絵図にも、四一五石とある。その後支郷を分出し、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」では戸数三四軒で、「先には衣田村と云、享保四亥より改名小又村と云」と注記される。支郷に新屋敷あらやしき五五軒・平里ひらさと二二軒・羽根川はねかわ一一軒がある。


小又村
おまたむら

[現在地名]福光町小又

土山どやま村南方にある。二俣ふたまた越の道筋にあたり、加越国境の朴坂ほおざか峠手前には三軒茶屋さんげんちやや地名が残る。小俣・小復とも記される(寛永一一年「礪波郡拾弐組村名附帳」礪波町村資料)。元和五年(一六一九)の家高新帳には「おまた」とみえ、くら原村藤兵衛組に属し、役家数一四。正保郷帳では高一一八石余、田方一町三反・畑方六町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一九九石、免五ツ、小物成は山役三四匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)には三清元組に属し、家数四五(うち頭振一)・人数二五九、馬二三、肝煎は善十郎、組合頭は仁兵衛・八兵衛(「三清元組覚帳」川合家文書)


小又村
おまたむら

[現在地名]立山町小又

松倉まつくら村の北の山間に位置し、北東長倉ながくら村。村名は城前じようぜん川と小又川(座主坊川)の合流点にあたることに由来するという。永禄年間(一五五八―七〇)池田いけだ城落城の折、家臣が当地に落延び、開拓に従事したと伝える(五百石地方郷土史要)。正保郷帳には小俣村とみえ、高五八石余、田方一町九反余・畑方一町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五四石、免五ツ、小物成は山役三三匁・蝋役三匁・漆役一〇匁・炭竈役一三匁、享保一三年(一七二八)の検地引高二四石余(三箇国高物成帳)


小又村
おまたむら

[現在地名]秋田市上新城小又かみしんじようおまた

新城川とその支流小又川に沿って山間に散在する。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「おまた村」、慶長三年(一五九八)の御蔵入御物成納口之帳に「小俣村」とあり太閤蔵入地。慶長七年九月二七日、佐竹義宣金乗こんじよう院に対し「為八幡御神領新城小又村之内参拾石其方為知行」(義宣家譜)と、小又村から八幡社神領を寄進させた(→久保田城跡の正八幡跡


小又村
おまたむら

[現在地名]穴水町小又

小又川水源地山間にあり、西はなし坂を越えて荒屋あらや(現門前町)、南は地蔵坊じぞうぼう村。正保郷帳では高七四石余、田方四町二反余・畑七反、新田高二九石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一一二石、免三ツ五歩、小物成は山役六九匁・炭竈五枚役六五匁(三箇国高物成帳)。享保二〇年(一七三五)の百姓家数一六・頭振家数一で、寛政元年(一七八九)の家数一七・人数一四〇(男七二・女六八)、牛馬一三(「村々様子書上控」大西文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android