小俣村
おまたむら
[現在地名]足利市小俣町・小俣南町
足尾山地南西端に位置し、北東の猪子峠の山中に発する小俣川が西流、やがて南流して渡良瀬川に注ぐ。西は米沢川・桐生川を境に上野国山田郡小友村・境野村(現群馬県桐生市)、東は粟ノ谷村・葉鹿村。小股とも記す。観応二年(一三五一)五月三日の関東公方足利基氏軍勢催促状(鶏足寺文書)によると、足利氏の被官で鶏足寺別当の小俣尊光に対し、足利庄の軍勢を催促して反徒を討つことが命じられている。「尊卑分脈」によると、小俣氏は足利泰氏の子賢宝を祖としており、当地を本貫地としていたのであろう。永正九年(一五一二)と推定される年欠一二月一五日の上杉憲房感状(安保文書)にみえる小俣城は小俣氏の居城とされ、現在鶏足寺裏山に複郭の城跡が残り、その規模は東西約三〇〇メートル・南北約一五〇メートルに及ぶ。鶏足寺蔵の釈迦牟尼仏坐像の天正一二年(一五八四)銘をもつ光背銘によると、この像の大檀那は渋川義昌・義勝父子。渋川氏は足利泰氏の次男義顕を祖とし、鶏足寺東側の小俣氏館跡は渋川氏居館跡ともいわれる。天正一七年二月二二日には当地の二〇貫文の地が本嶋与一に宛行われており(「長尾顕長充行状」八雲神社文書)、「足利長尾顕長家来」に当村の者として竹村甚四郎(永三〇貫文)と父出羽守渋川家来と注される籾山久兵衛(永三〇貫文)の名がみえる。
小俣村
おまたむら
[現在地名]安岐町明治
朝来野川の支流小俣川の両岸の山裾に細長く延びる。東は富永村、西は諸田村、南は中野村。安岐郷小俣の遺称地。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高三三八石余、家数四六、うち百姓八、庭屋・へ屋・牛屋三七、人数七一、うち百姓八・名子三、牛一三。正保郷帳では安岐郷に属し、田方一六〇石余・畑方八三石余で、柴山有・竹山有・日損所・新田有と注記される。天和二年(一六八二)松平英親の弟重長の分知領となり、小俣村を含む八ヵ村は両子組に属した。天保郷帳では高四六七石余。天保九年(一八三八)の山浦御案内忘備書(桂徳寺文書)には小又村とあり、高四六五石余、朱印高二四四石余、新田込高二二一石余、人別二九五、門数八〇、牛六九・馬四とみえる。
小俣村
おまたむら
[現在地名]安中市小俣
九十九川を挟んで高別当村・古屋村の北にある。「寛文朱印留」に村名がみえ、安中藩領。寛文郷帳では田方一六一石余・畑方一一五石余。江戸後期の御改革組合村高帳でも同高、安中藩領、家数三一。元禄郷帳によるとこの高のほかに正観寺領二七石余・下野尻村荘厳寺領三石余があった。寛文五年(一六六五)の助馬村々書上(坪井文書)によると中山道松井田宿・坂本宿(現碓氷郡松井田町)の助郷村として人足役家数一三、馬数一一と定められている。
小俣村
こまたむら
[現在地名]松本市笹賀 小俣
木曾川(奈良井川)の河岸平地と、その西の段丘面からなる。下段は水田地帯、上段は畑地帯である。段丘の平均標高は六五〇メートル余、今井村・洗馬村(現塩尻市)・神林村に接している。
小俣郷として「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に諏訪下社領として記載されている。天正検地の際は、二六四石二斗一升四合と高付けされている。
小俣村
こまたむら
[現在地名]熊野市飛鳥町小又
小坂村の北東、大又川の支流小又川流域に開けた村。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「小俣村」と記されている。「紀伊続風土記」に「本川筋を大俣とし、枝川を小俣とす、大俣小俣の村名是より起れり」とある。近世初期の家数一六(「新宮藩御勘定方旧記」和歌山県史近世史料編)。北山組に属する。元禄一一年(一六九八)新田検地が行われた(「新田畑御検地帳写シ」徳川林政史蔵)。
小俣村
おまたむら
[現在地名]小国町小股
太鼓沢村の南東、北西流する荒川右岸にある。小股とも記した(旧高旧領取調帳など)。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一五五石余、免二ツ七分、家数一二(うち役家二)・人数八七、役木として桑をあげる。蒲生氏高目録帳では尾又とあり、村柄は下。上杉領村目録によると高二九七石余(うち一九石余は免三ツ)、本免一ツ二分四厘七毛余。
小俣村
こまたむら
[現在地名]舞鶴市字地頭 小俣
地頭村の北北西、由良川支流の滝川中流に位置。集落は点在し、山が川に迫っているため耕地は少ないが、農業を主とし林業を副としていた。
慶長検地郷村帳にはみえず、土目録に高五三石余「小俣村」と記され、内訳は田方四三石余、畑方九石余とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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