小城村(読み)こじようむら

日本歴史地名大系 「小城村」の解説

小城村
こじようむら

[現在地名]一宮町小城

甲府盆地東部、笛吹川支流の川扇状地に位置し、南は北都塚きたみやこづか村、北は日川を越えて歌田うただ(現山梨市)。慶長古高帳に小城とみえ高三七四石余、幕府領貞享二年采地簿(臆乗鈔)には旗本加藤氏がみえ、貞享―元禄期(一六八四―一七〇四)の川東領分並給人付帳(渡辺一若家文書)では同家領と幕府領。元禄郷帳では幕府領。宝永二年(一七〇五)以降の領主変遷いちみや村に同じ。文久元年(一八六一)の村明細帳(有馬孝太郎家文書)によると、正徳六年(一七一六)甲府藩検地で四〇七石余が検出された。


小城村
こじようむら

[現在地名]養父町小城

上野うえの村の北東大屋おおや川の下流域にあり、北は藪崎やぶさき村、西は上箇あげ村。谷間地はさまじ川は当地で大屋川右岸に注ぐ。集落は谷間地川の氾濫を避けて山麓高所に上小城・下小城の二群に分れ形成されていた(享保八年「上野村絵図」守本家蔵など)。しかし幕末から近代にかけて谷間地川沿いの平地(現在地)に移った。近世の領主の変遷は藪崎村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では高一二一石余。出石封内明細帳によると拝領高一〇五石余・改出高一六石余、これらの内訳は屋敷一石余・麻畑一石余・田方六四石余・畑方五四石余、ほかに古新発高一〇石余・新発高二二石余。


小城村
こじようむら

[現在地名]竹野町小城

神原かんばら村の南、竹野川の支流はじかみ川の下流域に位置する。天保七年(一八三六)までの領主の変遷は宇日うひ村に同じ。以後は幕府領で幕末に至る。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高一九八石余。元禄九年(一六九六)の但州村々法度五人組帳(冨森家文書)でも同高。元文四年(一七三九)の家数人数其外書上帳(細田家文書)によると家数三七・人数一七六、社二、牛一三。延享二年(一七四五)の人家牛船数書上帳(同文書)では家数三七・人数一七七、牛一三。出石封内明細帳でも高に変化はないが、一九八石余のうち一七二石余が小城村分、二六石余は二連原にれんばら村分とある。二連原村は前掲の国絵図や五人組帳には記載がなく、出石藩主仙石氏の知行目録(仙石家文書)、天保郷帳にもみえない。


小城村
おぎむら

[現在地名]武蔵町小城

糸原いとはる村の南に位置し、小城山から東に傾斜する丘陵地帯に立地する。集落は小城山の東麓に位置する宝命ほうめい寺参道を挟んで点在する。西は小城山を境に吉松よしまつ(現安岐町)。文永一〇年(一二七三)二月一八日の青蓮院宮令旨(余瀬文書)六郷ろくごう山内として「両子・小城・大嶽・見地村等事」とみえ、能然の訴えを退け両子ふたご(現安岐町)以下の地が相伝道理に任せて祐快に安堵されている。小倉藩元和人畜改帳によると高一六六石余、家数二九、うち百姓九・山ノ口一、隠居・名子・下人・庭屋・へ屋・牛や一九、人数四〇、うち百姓九・名子三、馬一・牛一四。


小城村
くぐしくむら

[現在地名]東風平小城こぐすく

当銘とーみ村の北、岡連おかれん川上流に位置する。アタンザー山の裾野の集落で、南には当銘村のティミグラ森がある。琉球国高究帳では豊見城とうみぐすく間切に村名がみえ、武富だきどうん(現糸満市)と併記されて高頭一六七石余、うち田一四〇石余・畑二七石余。「琉球国由来記」には村名はみえず、「琉球国旧記」では東風平くちんだ間切に村名がみえる。「琉球国由来記」に載るシロカネ嶽・クワゲホク嶽は当銘村分にあげられるが、所在地は当村である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android