デジタル大辞泉
「小幡篤次郎」の意味・読み・例文・類語
おばた‐とくじろう〔をばたトクジラウ〕【小幡篤次郎】
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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小幡篤次郎
おばたとくじろう
(1842―1905)
洋学者、教育家、慶応義塾塾長。豊前(ぶぜん)国中津藩(大分県)の藩士小幡篤蔵の二男。藩黌(はんこう)進修館で漢学を修め、塾長となったが、福沢諭吉の勧めで1864年(元治1)江戸に出て福沢の塾に入り英学を学び、塾長を務め、また幕府の開成所英学助教ともなった。『天変地異』『博物新編補遺』などの科学啓蒙(けいもう)書は人々に歓迎され、科学知識の普及に貢献した。福沢とともに『学問のすゝめ』を著し、また『時事新報』の創刊に尽力するなど思想界の指導的役割を果たした。1879年(明治12)初の東京学士院会員となり、のち貴族院議員にも推された。
[菊池俊彦]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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小幡篤次郎 (おばたとくじろう)
生没年:1842-1905(天保13-明治38)
明治期の教育家,実業家。豊前中津藩生れ。藩校進修館の塾長を務めたが,1864年(元治1)上京,同郷の福沢諭吉の門に英学を学び,66年福沢家塾塾頭,幕府開成学校英学助教となる。77年欧米漫遊,のち交詢社の結成,明治生命保険会社創立に尽くし,また立憲改進党結成に参画した。東京学士院会員,貴族院勅選議員,貨幣制度調査委員となり,日本郵船,鐘淵紡績の役員などを兼ねるが,福沢に寄り添い慶応義塾の経営に精魂を傾け,90年塾長となった。出版の自由を論じたトックビルの《上木自由論》や《英氏経済論》などの訳著がある。
執筆者:広瀬 玲子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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小幡篤次郎 おばた-とくじろう
1842-1905 幕末-明治時代の教育者。
天保(てんぽう)13年6月8日生まれ。安政5年豊前(ぶぜん)中津藩(大分県)藩校進脩館の塾頭となる。江戸で福沢諭吉にまなび,明治23年慶応義塾塾長。東京学士会院会員,貴族院議員。明治38年4月16日死去。64歳。著作に「博物新編」「英氏経済論」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の小幡篤次郎の言及
【交詢社】より
…1880年1月創立の社交クラブ。前年9月福沢諭吉,小幡篤次郎,矢野文雄(竜渓),馬場辰猪ら31名が会合して創設を決定したもの。中心メンバーは福沢(常議員会長),小幡(幹事)以下の慶応義塾関係者で,〈知識を交換し世務を諮詢する〉ことを目的にかかげた。…
※「小幡篤次郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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