小曾根村(読み)おぞねむら

日本歴史地名大系 「小曾根村」の解説

小曾根村
おぞねむら

[現在地名]豊中市小曾根一―五丁目・豊南ほうなん町〈ひがし一―四丁目・みなみ四―六丁目・西にし四丁目〉・北条きたじよう町一―四丁目・服部緑地はつとりりよくち

現豊中市域の東端に位置し、たか川をへだてて榎坂えさか(現吹田市)と接する。村域は南北に狭長で南は神崎川に至る。集落はその中央部(現小曾根一―二丁目)にある。

〔中世〕

豊島てしま榎坂えさか郷に属し、同郷中央に位置した村で、近世の小曾根村のほかはま村・長島ながしま村・北条村などを含んだ。中世文書には小曾禰とみえることが多い。文治五年(一一八九)三月の春日社領垂水西牧榎坂郷田畠取帳(今西家文書)によれば、当村は東は高川、西は天竺てんじく川を境界とする五条一―三里からなっており、南の三国みくに(現神崎川)北岸の長島地区では野田秋永領や散在する椋橋東くらはしひがし庄と接していた。また北部の北条地区の一一条六―七里は榎坂村に属していたが、文永八年(一二七一)一二月一六日の源康綱畠田寄進状(勝尾寺文書)では、「豊島仲条小曾禰村拾壱条陸里参拾壱坪」となっており、鎌倉後期には一一条六里に属する北条地区も当村域に入っている。村内の領有関係をみると、文治の段階では当村の坪付面積は約一〇〇町歩余で、小曾禰集落の南部に京都東寺領が約一〇町歩、さらに南に山城醍醐寺末清住寺領がほぼ一〇町歩、ほかに三八町歩ほどの摂津住吉国衙領があり、そのほか一三町歩余の国衙領に三条院勅旨田・内匠寮田などの公領も散在している。残りは本所を近衛家、領家を奈良春日社とする垂水西たるみのにし牧領で二五町歩ほど。しかし延応二年(一二四〇)五月日の垂水西牧穂積御庄領家田畠坪付帳(今西家文書)をみると、文治五年に三条院勅旨田・兵庫寮田・国衙領と記載のあった坪が春日社領と記されており、春日社領は八〇町歩ほどになる。


小曾根村
こそねむら

[現在地名]西宮市小曾根町一―四丁目・若草町わかくさちよう一―二丁目・戸崎町とざきちよう甲子園一番町こうしえんいちばんちよう花園町はなぞのちよう学文殿町がくぶんでんちよう一―二丁目・里中町さとなかちよう一―三丁目・上鳴尾町あげなるおちよう鳴尾町四―五丁目

武庫むこ川とえだ川の分流地にある武庫郡の村。貞応元年(一二二二)七月一八日の近衛家領弘井庄田地宛行状(大徳寺文書)端裏書に「古曾禰村野田券」、安貞元年(一二二七)一二月二日の日下部氏女田地売券(同文書)端裏書には「こそねの石橋新券文」とあり、いずれも武庫西条四条一三里の地である。なお応仁の乱の頃とみられる九月八日付の勝家感状(大芋文書)に「於小曾禰村合戦」とあるが、これが当地をさすものかどうか不明。

慶長国絵図に村名がみえ、高一七七石余。領主の変遷は広田ひろた村に同じ。慶長一八年(一六一三)鳴尾村検知帳(明治大学刑事博物館蔵)では鳴尾村に含まれており、元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳にも「鳴尾之内 小曾禰村」とある。


小曾根村
おぞねむら

[現在地名]足利市小曾根町

矢場やば川北岸の低地に位置し、対岸は上野国邑楽おうらうずら村・中野なかの(現群馬県邑楽郡邑楽町)、東は高松たかまつ村。小曾祢とも記す。仁治二年(一二四一)二月日の足利義氏下文(鑁阿寺文書)足利庄「小曾祢郷」とみえ、同郷は鑁阿ばんな寺の五月二九日(足利義康の忌日)などの忌日用途を負担している。康永三年(一三四四)には小曾根郷の郷地頭による鑁阿寺の正月修正壇供餅・仏餉灯油などの未進があったが(同年一二月日「鑁阿寺雑掌申状案」鑁阿寺雑録)。応永八年(一四〇一)一二月二三日には関東管領上杉朝宗の意向を受けて、郷内の一部が借宿かりやど郷の「定光寺」に寄進されている(「関東公方足利満兼寄進状案」鑁阿寺文書)


小曾根村
こぞねむら

[現在地名]長岡市小曾根町・永田ながた四丁目・堀金ほりがね三丁目

長岡町北東の方、信濃川東平野のほぼ中央にある。西は永田村、東は乙吉おとよし村、北は富島とみじま村に道が通じる。立村の年代は不詳であるが、当村三浦家の祖は和田義盛の一族三浦党の一人平六義通という。天正村名考(温古之栞)に伝える「なり田四十三軒」は当村のことという。慶長二年(一五九七)の河村彦左衛門による検地帳(安禅寺文書)表紙には「古志郡大島庄内小楚根村」と記す。


小曾根村
おぞねむら

[現在地名]袖ケ浦市大曾根おぞね・のぞみ

野田のだ村の南に位置し、南を浮戸うきと川が流れる。寛永一〇年(一六三三)の龍穏寺本末帳に「小曾ね村蓮花寺」とある。同寺は隣接する当村の枝郷道谷どうやつ村に所在。正保国絵図に小曾根村とみえ、高五六五石。元禄郷帳では高四一九石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では大曾根村と記され、江戸時代中期・後期にかけても堀内ほりのうち・道谷の二ヵ村を含んで大曾根村と表記されることが多い。承応年間(一六五二―五五)には旗本佐野領(大曾根区有文書)、享保五年(一七二〇)には佐野二氏と旗本小宮山(島村家文書)。前掲上総国村高帳によれば旗本佐野二氏と同小宮山・服部の四給、旧高旧領取調帳では佐野二氏と小宮山の三家領。


小曾根村
おぞねむら

[現在地名]熊谷市小曾根

埼玉郡おし領に所属(風土記稿)。荒川の沖積扇状地上に位置し、北は幡羅はら下奈良しもなら村、南は大里郡肥塚こいづか村、北西部を熊谷太田道がよぎっている。天正一八年(一五九一)九月の伊奈忠次知行書立(長崎県片山家文書)によると、忍城(現行田市)松平家忠に一万石が宛行われたが、そのなかに「おそね」とみえる。同一九年三月、松平家忠に「おぞね村」で三〇五石余が預けられている(「伊奈忠次忍領預地書立」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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