小橋村(読み)おばせむら

日本歴史地名大系 「小橋村」の解説

小橋村
おばせむら

[現在地名]天王寺区味原あじはら町・真田山さなだやま町・舟橋ふなはし町・味原本あじはらほん町・小橋町など

東高津ひがしこうづ村の東に位置し、北を吉右衛門肝煎地きちえもんきもいりちと接する。南は天王寺村と、南の一部および東は木野この(現生野区)と接する。「大阪市史」付録の天保一四年(一八四三)の大坂図(考証地図)によれば、村域は上町うえまち台地の東斜面から平野部に及び、味原池によって東と西に分断されている。村名は「こはし」とも「おはし」あるいは「おばし」ともよんだようで、慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図には「木橋村」、元和初年の摂津一国高御改帳に「小(橋)」とみえる。東方の木野村属邑東小橋ひがしおばせ(現東成区)に対して西小橋にしおばせ(慶長一三年「摂津国東生郡味原村三ケ村絵図」比売許曾神社蔵)上小橋かみおばせ(明暦―寛文年間近世大坂地図)山小橋やまおばせ(宝暦二年天王寺管内地図)ともいった。

小橋村
おばせむら

[現在地名]舞鶴市字小橋

大浦半島東北部、野原のはら村の西方に位置し、丸山まるやま砂丘で西方三浜みはま村と境する。小橋川河口畔に塊村の形で集落がある。昭和三七年(一九六二)小橋川の改修工事中、川床の粘土層の中から先縄文時代の打製石器(有舌尖頭器)が発見された。これは丹後地方最古の遺物とされる。

延徳二年(一四九〇)の河辺村半済方御年貢米銭納帳写(「西大浦村誌」所引)に、

<資料は省略されています>

とあり、七人の名が記される。

小橋村
こばしむら

[現在地名]真岡市小橋

五行ごぎよう川右岸の真岡台地東部縁辺に位置する。建久四年(一一九三)、源頼朝が中村なかむら荘厳しようごん寺に寄進した寺領合田三〇町に含まれた一村とされ、以来永く寺領となっていた(荘厳寺記)。「水谷蟠竜記」に天正一四年(一五八六)宇都宮・水谷両氏和解によって当村は宇都宮領に属することとなったとある。慶長九年(一六〇四)宇都宮藩の検地で反別一町二反・高七石(小橋村誌)。同一四年新庄二郎兵衛らより、小橋新田分百姓宛に、「庄厳寺御知行ニ相渡候」という証文(荘厳寺文書)があり、寺内てらうちの荘厳寺領となり、以後幕末まで続く。承応二年(一六五三)の検地では、村高三三石余・反別五町四反余であったが、「荘厳寺領小橋新田村一円」の先規により村高七石として寺領とされた(小橋村誌)

小橋村
こばしむら

[現在地名]青森市小橋

東は陸奥湾に面し、南は浜松はままつ村、西は中山なかやま山脈金木かなぎ(現北津軽郡金木町)、北は六枚橋ろくまいばし村に接する。

貞享四年(一六八七)検地帳によれば、村高五一四・九八五石、うち田方四六二・〇六六石、畑方五二・九一九石とある。元禄三年(一六九〇)には後潟組に属し、村位は下である(平山日記)。享和二年(一八〇二)伊能忠敬の「測量日記」に家数は川崎かわさき浜松三村合せて六九軒、名主が一人であるとみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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