知恵蔵 「小野田寛郎」の解説
小野田寛郎
1922年3月19日、和歌山県亀川村(現・海南市)生まれ。旧制中学校を卒業後、貿易商社に勤めて中国へ渡るが、徴兵されて42年に陸軍に入隊。久留米第一予備士官学校を経て、ゲリラ戦や情報戦を学ぶ陸軍中野学校二俣分校に入り、44年12月にフィリピン戦線に派遣された。45年8月の終戦後も、任務解除命令が届かなかったために仲間と共にルバング島で戦闘を続けた。終戦の情報や投降を呼び掛けるビラも米軍の謀略と疑い、朝鮮戦争やベトナム戦争へ向かう米軍機を見て大陸での戦争継続を確信するなど、終戦を信じなかったという。日本政府は、投降した元日本兵の証言などを基に50年代から何度も残留兵の捜索活動を行ったが発見できず、死亡したと見られていた。72年10月に小野田らがフィリピン警察と銃撃戦になったことで生存が分かり捜索が再開されたが、その後もなかなか見つけられなかった。74年2月、冒険家の日本人青年が接触に成功し、帰国に結び付いた。
帰国の翌年、兄が移住していたブラジルに渡り、原野を切り開いて牧場を始め、10年かけて軌道に乗せた。また、日本で起きた凶悪な少年事件に心を痛めたのをきっかけに、84年から日本で「小野田自然塾」を始めた。89年には財団法人を設立して理事長となり、自身のルバング島の体験を生かしてキャンプを通じた青少年の育成に力を注いだ。2005年に藍綬褒章を受章。14年1月16日、肺炎のため91歳で死去した。
(原田英美 ライター / 2014年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報