小野田寛郎【おのだひろお】
陸軍軍人,実業家。第二次世界大戦敗戦後も日本の降伏を信じず,フィリピン・ルバング島で30年間ゲリラ戦を続ける。1974年3月にフィリピン軍に投降,日本に帰還した。和歌山県海南市出身。旧制和歌山県立海南中学卒業後,商社に勤務,中華民国漢口に赴任し中国語を習得する。1942年和歌山の歩兵連隊に入隊,1944年久留米第一陸軍予備士官学校に入学するが,中国語と英語の能力があることから選抜され陸軍中野学校二俣分校に入る。ゲリラ戦と諜報戦の教育を受け,陸軍見習士官をへて予備陸軍士官(少尉)に任官される。1944年末第14方面軍(フィリピン防衛を任務とする)情報部付となり,残置諜者及びゲリラ戦指揮を命じられる。この時,陸軍中将横山静雄軍司令官から玉砕せず最後の一兵となっても戦い続けよという訓示を与えられた。日本は占領されても連合軍と戦い続ける,という計画を提示されていたという。帰国後,高度成長末期の日本社会に違和感を持ち,帰国後結婚した妻とともに次兄のいるブラジルに移住,牧場経営に取り組み成功する。1984年私財を投じて子供を自然のなかで教育する小野田自然塾を創設,晩年までブラジルと日本を往復して活動を続けた。
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小野田寛郎
おのだひろお
[生]1922.3.19. 和歌山,亀川
[没]2014.1.16. 東京
元陸軍軍人。1944年陸軍の中野学校二俣分校を卒業,同 1944年フィリピンに派遣され,遊撃戦指導のためルバング島に渡った。翌 1945年8月の第2次世界大戦の終戦後に任務解除の命令が届かなかったため,降伏命令のびらを敵の謀略と考えて島内に潜行し続けた。1974年日本人青年と遭遇,投降を説得されるが,直属上官の命令がないことを理由に拒否。かつての上官が現地に赴いて任務解除命令をくだし,30年ぶりに日本に帰還した。その生還は平和と高度経済成長に慣れきった日本人に大きな衝撃を与えた。しかし,時代の隔絶による価値観の激変は大きく,マスコミ攻勢にも嫌気が差して 1975年ブラジルに移住,牧場を経営する。また 1989年福島県に小野田自然塾を設立,野外活動を通して青少年の育成を目指した。2004年ブラジルのサントス=デュモン勲章を,2005年藍綬褒章を受章。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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小野田寛郎 おのだ-ひろお
1922-2014 昭和時代の軍人。
大正11年3月19日生まれ。陸軍少尉。離島残置諜者の訓練をうけ,昭和19年フィリピンのルバング島に派遣される。終戦を知らずにたたかいつづけ,49年に発見され,30年ぶりに帰国した。50年ブラジルにわたり,牧場を経営。59年福島県で子供を対象にした小野田自然塾をひらく。平成26年1月16日死去。91歳。和歌山県出身。陸軍中野学校卒。著作に「わがルバング島の30年戦争」「ルバング島戦後30年の戦いと靖国神社への思い」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の小野田寛郎の言及
【復員】より
…現在は厚生省援護局が遺骨収集・戦没者慰霊事業等の業務を担当している。この間,戦後30年経って旧軍人が発見され,72年2月に横井庄一がグアム島から,また74年2月に小野田寛郎がルバング島から帰還した。[シベリア抑留][引揚げ]【梅田 欽治】。…
【ルバング[島]】より
…第2次大戦後30年近くにわたり敗戦を信じない日本兵がこの島にたてこもった。1974年3月,小野田寛郎元少尉の救出に成功したものの,ほかの兵士たちはそれまでに貴重な命を失っていた。【梅原 弘光】。…
※「小野田寛郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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