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尾張浜主 おわりのはまぬし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

尾張浜主
おわりのはまぬし

平安時代初期の雅楽家。を最も得意とし,唐から帰国後承和 12 (845) 年百十余歳で舞ったという伝説がある。大戸清上 (おおどのきよかみ) の曲に舞をつけたといわれる。『五重記 (ごじゅうき) 』の著者に擬せられるが疑わしい。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

尾張浜主 おわりの-はまぬし

733-? 奈良-平安時代前期の雅楽家。
天平(てんぴょう)5年生まれ。舞楽の名手として知られ,「応天楽」「拾翠(じゅすい)楽」などの舞をつくったとされる。承和(じょうわ)12年に大極殿で「和風長寿楽」を舞った。当時113歳の高齢で,その舞姿は少年のようであったとつたえられる。また「五重記」をあらわしたともいわれる。

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朝日日本歴史人物事典の解説

尾張浜主

生年:生没年不詳
平安時代初期の雅楽奏者。雅楽を専業とする狛氏では,楽道の祖として仰ぐ。大観衆を圧倒する舞の名人で,種々の逸話が伝えられる。承和12(845)年1月8日,宮中の大極殿で113歳という背が曲がり起居も不自由な老体で「和風長寿楽」を少年のごとく舞い,1000人の観衆は「近代稀なる舞人」とほめたたえたという。この記録によれば,生年天平5(733)年となる。承和3年4月に遣唐使と共に唐に渡り,舞と笛を学んで同6年8月に帰国したという記録もあるが,これは104歳から107歳に当たり,信じがたい。

(蒲生美津子)

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世界大百科事典 第2版の解説

おわりのはまぬし【尾張浜主】

733(天平5)‐?
奈良中期~平安初期の楽師。とくに舞楽に優れ,孝謙天皇のとき〈採桑老〉を舞い,また同天皇の勅により〈蘭陵王〉の桴(ばち)を改めたと伝えられ,833年(天長10)の仁明天皇の大嘗会のために〈応天楽〉〈河南浦〉〈拾翠楽〉の舞を作ったという。839年(承和6)正六位上より外従五位下に昇り,845年正月,上表して〈和風長寿楽〉を舞うことを願い出て許され,最勝会の初日に大極殿前の竜尾道で舞った。時に年113歳であったが,舞い始めると少年のごとく軽やかに舞って満座の称賛を博し,数日後,仁明天皇に召されて,再び清涼殿前で舞った。

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大辞林 第三版の解説

おわりのはまぬし【尾張浜主】

733~?) 平安前期の楽人。日本雅楽の形成に尽力、「拾翠楽」「応天楽」などを作舞した。一一三歳の高齢でも身軽に舞ったという。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

尾張浜主
おわりのはまぬし
(732/733―846?)

平安初期の雅楽家。笛、舞の始祖といわれる。孝謙(こうけん)天皇の勅により『陵王(りょうおう)』の舞を改作したり、仁明(にんみょう)天皇の御即位大嘗会(だいじょうえ)(834)に『応天楽』『拾翠楽(じゅすいらく)』『河南浦(かなんふ)』の舞をつくるなど、大戸清上(おおとのきよかみ)とともに平安朝の楽制改革を進める。835年(承和2)から4年間遣唐使として渡唐。845年には自作の『和風長寿楽(わふうちょうじゅらく)』(一説に『春鶯囀(しゅんのうでん)』)を113歳で少年のように舞って景勝会千人の観衆を感嘆させ「七代(ななつぎ)の御代(みよ)に遇(まわ)へる百(ももち)余り十の翁(おきな)の舞ひ奉る」の歌を献じたという。楽道書『五重記(ごじゅうき)』(772)を著す。[橋本曜子]

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