尾張浜主(読み)オワリノハマヌシ

精選版 日本国語大辞典 「尾張浜主」の意味・読み・例文・類語

おわり‐の‐はまぬしをはり‥【尾張浜主】

  1. 平安初期の楽人舞楽の名手。大戸清上と共に仁明朝(八三三‐八五〇)の楽制改革の中心人物。一一三歳に至っても自作の「和風長寿楽」を軽やかに舞ったという。生没年未詳。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「尾張浜主」の意味・わかりやすい解説

尾張浜主 (おわりのはまぬし)
生没年:733(天平5)-?

奈良中期~平安初期の楽師。とくに舞楽に優れ,孝謙天皇のとき〈採桑老〉を舞い,また同天皇の勅により〈蘭陵王〉の桴(ばち)を改めたと伝えられ,833年(天長10)の仁明天皇の大嘗会のために〈応天楽〉〈河南浦〉〈拾翠楽〉の舞を作ったという。839年(承和6)正六位上より外従五位下に昇り,845年正月,上表して〈和風長寿楽〉を舞うことを願い出て許され,最勝会の初日大極殿前の竜尾道で舞った。時に年113歳であったが,舞い始めると少年のごとく軽やかに舞って満座の称賛を博し,数日後,仁明天皇に召されて,再び清涼殿前で舞った。翌年正月にも天皇に召されて舞い,高年を優して破格の従五位下を授けられた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「尾張浜主」の意味・わかりやすい解説

尾張浜主
おわりのはまぬし
(732/733―846?)

平安初期の雅楽家。笛、舞の始祖といわれる。孝謙(こうけん)天皇の勅により『陵王(りょうおう)』の舞を改作したり、仁明(にんみょう)天皇の御即位大嘗会(だいじょうえ)(834)に『応天楽』『拾翠楽(じゅすいらく)』『河南浦(かなんふ)』の舞をつくるなど、大戸清上(おおとのきよかみ)とともに平安朝の楽制改革を進める。835年(承和2)から4年間遣唐使として渡唐。845年には自作の『和風長寿楽(わふうちょうじゅらく)』(一説に『春鶯囀(しゅんのうでん)』)を113歳で少年のように舞って景勝会千人の観衆を感嘆させ「七代(ななつぎ)の御代(みよ)に遇(まわ)へる百(ももち)余り十の翁(おきな)の舞ひ奉る」の歌を献じたという。楽道書『五重記(ごじゅうき)』(772)を著す。

[橋本曜子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「尾張浜主」の解説

尾張浜主 おわりの-はまぬし

733-? 奈良-平安時代前期の雅楽家。
天平(てんぴょう)5年生まれ。舞楽の名手として知られ,「応天楽」「拾翠(じゅすい)楽」などの舞をつくったとされる。承和(じょうわ)12年に大極殿で「和風長寿楽」を舞った。当時113歳の高齢で,その舞姿は少年のようであったとつたえられる。また「五重記」をあらわしたともいわれる。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尾張浜主」の意味・わかりやすい解説

尾張浜主
おわりのはまぬし

平安時代初期の雅楽家。舞を最も得意とし,唐から帰国後承和 12 (845) 年百十余歳で舞ったという伝説がある。大戸清上 (おおどのきよかみ) の曲に舞をつけたといわれる。『五重記 (ごじゅうき) 』の著者に擬せられるが疑わしい。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

《「晋書」杜預伝から》竹が最初の一節を割るとあとは一気に割れるように、勢いが激しくてとどめがたいこと。「破竹の勢いで連戦連勝する」[類語]強い・強力・強大・無敵・最強・力強い・勝負強い・屈強・強豪・強...

破竹の勢いの用語解説を読む