古代の宮殿の中心建物。中国では太極殿といい都城内の建物に起源をもち,三国時代の魏の明帝青竜3年(235)が初見である。この太極殿は東西両堂をもち,北魏の洛陽城にいたって前殿をもつようになった。しかし後の唐の長安城の太極殿では,東西両堂および前殿をともなっていない。
日本の古代の都城における大極殿は,中国の太極殿の系譜をひくと考えられ,藤原宮,平城宮,長岡宮,恭仁宮,平安宮,後期難波宮などで跡がみつかっている。いずれも前殿をもたず,藤原宮をのぞいては東西両堂ももたないので,唐の太極殿を継受した可能性が高い。これに対して前期難波宮や伝飛鳥板蓋宮の大極殿相当の建物は前殿をもち,前者には東西両堂がある。したがって,これらの宮殿は唐より前の魏晋南北朝の太極殿の系譜をひくものかもしれない。また大極殿の名称が確認できるのは藤原宮からで,成立史上の一つの転換期となっている。藤原宮以後の大極殿は,唐の長安城の太極殿や含元殿がそうであったように皇帝の即位,朝賀といった公的儀式の中心となる殿舎であった。
藤原宮の大極殿は9間×5間の建物で基壇があり,その土壇の一部が残っている。第2次大戦前,日本古文化研究所の発掘で,7間×3間と推定されたが,現在ではその後の周辺の調査によって9間×5間と推定されている。平城宮の大極殿は,平城宮の中軸線にのって造営された大極殿推定建物跡と,東寄りに前者よりおくれて建てられた大極殿跡とがある。前者は平城宮創建当初のもので,後殿をともなう9間×5間の基壇建物で,前面に磚積の壇をもっている。後者は同じく9間×5間の基壇建物だが,規模は前者より小さい。後者の土壇もそのほとんどが残っており,所在地の小字名〈大黒の芝〉は明治時代に関野貞(1867-1935)が平城宮の復元を試みたときの手がかりとなった。後者の大極殿は恭仁京からの還都後の造営ではないかと推定されている。大極殿の下層に7間×4間の掘立柱建物が前身建物として存在していたことが発掘確認されている。また,前者がその南でいわゆる平安宮式の朝堂院に接続しないのに対して,後者は南に12堂からなる朝堂院をもっている。ただ後者の大極殿と朝堂院とのあいだは回廊で遮断され,閤門がたてられていたのにたいして,平安宮の場合は大極殿の前面に回廊はなく竜尾壇(りゆうびだん)がもうけられて,直接朝堂院につながっている。また恭仁宮では9間×5間の建物がみつかっており,これは740年(天平12)平城宮から移建したものとされている。平安宮の大極殿は11間×4間の建物とされている。平安宮の場合は文献史料にめぐまれて,その中にあった高御座(たかみくら)や階段,壁面の詳細についても知ることができる。発掘調査はごく一部が行われている。
→大安殿(だいあんでん)
執筆者:鬼頭 清明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
「だいぎょくでん」とも読む。大内裏(だいだいり)の正庁である朝堂院(ちょうどういん)の正殿で、その北部中央にあった。即位、大嘗会(だいじょうえ)、朝賀(ちょうが)、視告朔(こくさく)、御斎会(ごさいえ)など、重要な儀式に天皇が出御した。7世紀後半には成立していたとされ、難波(なにわ)宮、藤原宮、平城宮、長岡宮では遺構が発掘されており、いずれも朝堂との間に廊、閤門(こうもん)があって境となっていた。前期難波宮(天武(てんむ)朝以前)では東西七間、南北二間の母屋(もや)の四面に庇(ひさし)があり、北に建てられた内裏と廊で結ばれていた。
藤原宮では東西九間、南北二間の母屋の四面に庇があったと推定され、大極殿を囲む形の東西北の回廊に殿舎があり、初めて瓦葺礎石造(かわらぶきそせきづくり)となった。平城宮では東西七間、南北二間の母屋の四面に庇があり、北側の回廊に後殿があった。
長岡宮では平城宮と同じ規模で、北側に小安殿(こあどの)、背後の回廊に門があった。小安殿とは天皇が大極殿に出御する際の休息所で、平城宮までは朝堂院のすぐ北にあった内裏が東方に移されたためにつくられた。
平安宮の大極殿は、遷都直後の795年(延暦14)完成し、翌年正月には桓武(かんむ)天皇が群臣の朝賀を受けている。朝堂との境の回廊と閤門が竜尾壇(りゅうびだん)(道(どう))という段になり、背後にある小安殿と廊で結ばれていた。殿舎は東西九間、南北二間の母屋の四面に庇があり、緑釉瓦(りょくゆうがわら)、朱塗りの柱の寄棟(よせむね)造で、床には磚(せん)(れんが)を敷き、母屋中央には壇をつくって高御座(たかみくら)を置いた。三度火災にあい、1177年(治承1)焼失したのちは再建されなかった。なお、1895年(明治28)に建立された平安神宮の拝殿は平安後期の大極殿を縮小模造したものである。
[吉田早苗]
太極殿(たいきょくでん)・前殿(ぜんでん)・大殿とも。宮城内に造られた中核的殿舎。日常の朝政のほか,天皇の即位,大嘗祭(だいじょうさい),元日朝賀などの重要な儀式にも用いられ,そのたびに天皇が着座した。発掘例では桁行9間,梁行5間の構造のものが多く,12世紀の「年中行事絵巻」御斎会巻には,高い基壇の上に建つ当時の姿が描かれている。朝堂院にあって宮城のほぼ中央に位置し,宮城内で最大の建築物であった。名称は唐の長安城の太極殿に由来し,日本では律令制度が整備される藤原宮の時代にはじめて成立したとみられている。以後歴代王朝の象徴的存在となったが,1177年(治承元)の火災以降再興されなかった。なお,平城京大極殿は2010年(平成22)に復原された。
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…両宮にみえる大安殿は宴,賜物などの場として使用され,親王,侍従らを召しているところからみると内裏内の中心的建物と考えられる。また《続日本紀》大宝1年(701)正月条には大極殿(だいごくでん)とならんで記述されているので,大極殿とは別の建物である。また藤原宮では東安殿,飛鳥浄御原宮では内安殿,外安殿などの呼称がみえ,いずれも内裏内部の殿舎名と思われる。…
…原則として,朱雀門に面する宮城の中央部に位置する。大極(だいごく)殿・朝堂・朝集殿の三つの部分からなり,これら3部分全体をさす朝堂院の語は史料上長岡宮に至って初めて用いられるが,現在は平城宮以前の用語としても使う。818年(弘仁9)平安宮で朝堂各堂・門に中国風の号をつけるとともに〈八省院〉と称する。…
…平安宮朝堂院の北端にある壇。壇上に大極殿(だいごくでん)がたち,そこから朝堂全体が見わたせるようになっていた。それ以前の宮のうち藤原宮,平城宮(第2次),長岡宮では大極殿の南には門と築地があって朝堂は大極殿からは見えないようになっており,竜尾壇もなかった。…
※「大極殿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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