( ①について ) 中世以降になると朝廷の楽所も形式化し、相続く戦乱によって楽家の継承も困難となり、各地の寺社に属して活動するようになった。京都に多(おおの)、豊原、安倍、大神(おおみわ)、藤原、尾張の六姓の楽家があって、朝廷の楽事をつかさどったが、尾張氏は早く断絶。奈良には狛(こま)姓の楽家があって春日神社に奉仕し、摂津の天王寺には秦(はた)姓の楽家があった。この京都、奈良、天王寺の楽家を三方の楽所(楽人)といった。その他の諸寺院にもあり、江戸時代の楽家数はおよそ五〇家。
雅楽の演奏家。「がくじん」ともよぶ。平安時代の楽制改革以後、宮廷に設けられた楽所(がくそ)では、専業の楽人と特定の貴族愛好家によって各種儀礼のための雅楽が教習された。楽人は篳篥(ひちりき)・笛・笙(しょう)・打楽器および舞を、貴族は琵琶(びわ)・箏(そう)および歌を担当し、前者は官位が低く昇殿を許されないため「地下(じげ)の楽人」とよばれた。俗席での演奏は禁じられ、代々特定の楽器および舞を専有し、その家系を「楽家(がくけ)」といって笛の多(おおの)家、篳篥の安倍(あべ)家などがある。大社寺にも神事・法会(ほうえ)のための楽人が置かれ、そのうちとくに大坂四天王寺と奈良興福寺の集団は充実したので、天正(てんしょう)・文禄(ぶんろく)年間(1573~96)には京都宮廷の楽人とあわせて「三方(さんぽう)楽人」と称された。1642年(寛永19)3代将軍徳川家光(いえみつ)は京都から50名の楽人を召して江戸城内紅葉山(もみじやま)の家康廟(びょう)の霊祭にあたらせ、これを「紅葉山楽人」とよんだ。その後楽人の呼称は、1870年(明治3)太政官(だじょうかん)に設けられた雅楽局では伶人(れいじん)、現在の宮内庁楽部では楽師となった。
[橋本曜子]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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