住宅の中で、主となる人物あるいは家族が普段いる部屋。主となる人物が普段いる部屋の意では、歴史的にみると、昼御座(ひるのござ)、常御所(つねのごしょ)とよばれた部屋がこれにあたり、江戸時代以降は居間とよばれることが多くなった。江戸時代以降になると、家族の普段いる部屋の名称としても用いられ、明治維新以降は、居間のほかに茶の間とよばれることも多い。近代の都市住居では両方の用例がみられ、家族の普段いる部屋は、通常和風の住宅では茶の間、洋風住宅では居間とよばれている。洋風の居間は欧米の住宅におけるリビングルーム、ボーンチンマーWohnzimmer(ドイツ語)などに相当する。
[平井 聖]
日本の住宅では、平安時代の寝殿造になって初めて居間の存在が明らかになる。寝殿造の住宅では寝殿の母屋(もや)の3分の2ほどの部分が昼御座とよばれ、座として茵(しとね)を置いた2畳の畳が板敷きの床(ゆか)の上に敷かれていた。この座の周囲には、日常手回り品を置く厨子棚(ずしだな)、二階棚などがあり、几帳(きちょう)や軟障(ぜんじょう)で囲まれていた。平安末期になると、寝殿の母屋が儀式で使われることが多くなったために、居間としての機能は北庇(きたびさし)に移った。北庇に居間部分が移ると、北へ拡張して北孫庇がつくられるようになったと考えられている。しかし寝殿はその住宅を所有する女性が居住する建物で、当時の貴族階級の夫人を北の方(かた)とよんだことからみて、寝殿北部が早くから女性の居間にあてられていたのかもしれない。寝殿の東西あるいは北に建てられた対屋(たいのや)は娘のための建物で、それぞれ母屋がその対屋に住む女性の居間となっていた。
中世の主殿造(しゅでんづくり)では、中心になる主殿の南側を接客、対面のための場としていたから、居間となる常御所は北側にあった。常御所には寝室となる塗籠(ぬりごめ)が隣接して設けられていた。居間には手回りの品を収める棚や鏡台や泔坏(ゆするつき)などが用意されていた。
近世の書院造では、大名の場合、日常の藩務が多くなり、居間は政務をみるための事務室となり、大名は奥から表の居間に出て執務した。このような居間は、幕府の本拠である江戸城本丸御殿などでは御座間(ござのま)とよばれていた。これに対して、本来の日常住まう居間が御座間より奥に改めて建てられ、居間、居間書院、御休息とよばれている。中・下層の武家住宅は、上層武家住宅の簡略、縮小型とみてよいが、居間にあたる部屋は、主人の場合座敷あるいは居間、家族の場合居間あるいは茶の間などとよばれていた。農家は、江戸時代になると多くの遺構があり、勝手(かって)などとよばれていた囲炉裏(いろり)のある部屋が居間として使われていたことがわかる。
明治以後の都市住宅は中・下層の武家住宅を踏襲しているが、江戸時代に接客の場と主人の居室を兼ねていた座敷は、両機能が分離して座敷と居間、あるいは座敷と書斎の構成をとるようになる。また、洋風の応接室ができると、座敷が主人の居間の性格を強める場合もみられる。これに対して家族の居間となったのは茶の間であった。明治期には北側の台所に近い場所にあった茶の間は、大正期に入ると家族生活がしだいに重視されるようになったことを反映して、南面する日の当たる場所に設けられるようになっていく。この南面する茶の間には、昭和期に入ると掘りごたつが設けられることが多くなり、家族が集まるだんらんの場の性格を強めている。
一方、明治期にはヨーロッパやアメリカから洋式の建築が入り、洋風住宅が建てられるようになった。洋風住宅は、上層階級の場合には和風住宅と併立して建てられ、主として晴(はれ)向きの場として使われていた。したがって、その中につくられていた居間は家族の私的なだんらんの場ではなく、実質は晴の場であった。しかし、大正期ごろから一般の都市住宅でも洋風化が進み、椅子(いす)座式の居間を設ける例がみられるようになる。このような例は、従来の和風住宅に椅子座式の生活様式が取り込まれた場合にはみられず、洋風で椅子座式の生活様式を主体とした住居に現れるが、その例はまだ少なく、ほとんど建築家が設計した特別な場合に限られていた。
第二次世界大戦後になると都市住宅の洋風化はいっそう進むが、敗戦の影響から都市住宅は十分な広さをとることができず、初めから居間を設けた例は少なかった。集合住宅においても、椅子座式のダイニングキッチンのほかには畳敷きの個室しかなかったから、余裕のある場合に畳敷きの個室を茶の間にあてる程度であった。敗戦後20~30年余りを経過して、ようやく民間集合住宅から椅子座式の居間が設けられるようになり、公営のものにもしだいに及んでいる。
ヨーロッパの住宅では、中世のマナハウスmanor house(荘園(しょうえん)領主の邸宅)において、ホールが居間の役割を果たしていたが、ホールの公的性格が強まるにつれて、居間すなわち家族が生活する部屋としてのパーラーや寝室が設けられるようになった。寝室は個人の居間で、寝る場所、くつろぐ場所、食事をする場所を兼ねていたが、ルネサンス以降になると、規模の大きな住宅では、機能によってさらに部屋を分けるようになる。イギリスの例では、17世紀には、パーラーのほかに食堂(ダイニングルーム)や客間(ドローイングルーム)を設けるようになっている。一方、イギリスの郊外住宅では同じころ、居間(リビングルーム)と台所からなる間取りがみられ、時代とともに客間や食堂が加えられていく。そして19世紀末から20世紀初頭に、居間としてのリビングルームが、郊外の住宅だけでなく都市住宅にも広くみられるようになった。寝室を階上に設け、1階を居間をはじめ食堂、客間など共同の生活の場とする傾向はイギリスに限らずヨーロッパやアメリカの住宅に共通している。
[平井 聖]
現代の日本の住宅において、リビングルームとよばれる椅子座式の居間はだんらん、すなわちテレビを見る、話し合う、音楽を楽しむ、お茶を飲むなどの家族の日常の生活行為に使われるほかに客間としても使われるのが実情である。また、主人、主婦のための個室がない家が多く、主人、主婦の日常生活の場ともなっている。これらの状況から、家族4~5人、客を含めて7~8人程度が集まることを予想して家具、テレビ、ステレオ、ピアノなどを配置することになる。
ヨーロッパでは、中世以来の伝統として居間や客間に暖炉を設け、部屋の中心としている。これは和室における床の間と同様の性格とみてよい。日本では本格的に暖炉が設計できる建築家は限られているうえに、そのような伝統もないので、飾り棚や絵画や花などを飾る壁面などで代用することが多い。和風と折衷していけ花や絵画を飾る床の間風のニッチnicheを設けることもある。広さは、家具の配置などを考えると30平方メートル以上必要であるが、一般の都市住宅では十分な広さをとる余裕がないために、居間と食堂を一室にし、それぞれのコーナーを設けて使い分けていることが多い。
一方、茶の間とよばれる床(ゆか)座式の居間は、リビングルームの場合の機能に加えて食事が加わる。ダイニングキッチンなど食事をする場所が設けられている場合でも多くの場合食事をする場所は椅子座式であるので、床座式の食事の場所が欲しくなる。とくに冬季や日本酒を飲む場合にはその傾向が強い。茶の間は畳敷きで、中央にちゃぶ台を置き壁ぎわに茶だんすなどが並べられる。冬季には、ちゃぶ台はこたつにかわる。近年は、ちゃぶ台の裏に熱源を仕込んだものが用いられるが、昭和期の初めごろから腰掛式の掘りごたつが用いられてきた。こたつは中世から使われている暖房器具で、初め炉を切り、その上に櫓(やぐら)をのせていたが、江戸時代に櫓の底部に火を置く可動の置きごたつができ、さらに昭和期の腰掛式の掘りごたつへと移り変わってきた。この掘りごたつを備えた茶の間は、家族の集まり語らう場として、これまでの日本の住宅のなかでもっとも好ましい居間の形式であった。掘りごたつの大きさは半畳のものが多く、家族が多い場合は1畳ほどのものまでみられた。茶の間の広さは通常4畳半から8畳までで、6畳が一般的である。
[平井 聖]
住宅で家族が共通して,くつろいだり,だんらんのために使う部屋。〈居間〉という言葉は,江戸時代以前には主として主人あるいは夫人の居室を指し,それが近代以降西欧住宅のリビングルームに対応する概念となり,第2次世界大戦後の住生活の変化の中で定着した。歴史的にみると,日本の住宅には常に現在の居間と同じ機能を果たす空間があった。平安時代の貴族住宅では主人,正妻,嫡子はそれぞれ1棟の建物を占有して使用していたので,家族のだんらんも個人の居間を訪問する形で行われた。そのため,家族が共通して使用する居間的な空間はなかった。このような上層階級の住い方は,支配階級が武士に替わった中世・近世の上層住宅にも引き継がれた。江戸時代前半期の庶民住宅(農家)では,間取りは違っていても,生活の中心はいろりを切った10畳から15畳くらいの広い部屋にあった。いろりまわりは,主人の座であるヨコザを中心に家族の席が決まっており,食事,休息,だんらんが行われる。客をもてなすのもいろり端であり,正月の儀式もここで行われる。いろりを離れた部分では,家事や農作業が行われ,農家の屋外作業と就寝を除いた全生活がこの場で繰り広げられる。部屋の名称としては,全国共通のものはないが,ジョイ(常居),オエ,ダイドコロ,チャノマ,ヒロマなどと呼ぶ地方が多い。このような家族共通の居間空間を中心に展開された屋内生活は,江戸時代の後半期になると崩れてくる。それは,武家住宅で行われていた主人や嫡子は日中は座敷に居り,接客にもその場を使うという,実生活よりも社会的体面を重視する封建主義的な住い方が,庶民住宅にも波及してきたことによる。その結果,多目的に使われていた広い居間的空間は表裏二つに分割され,表側は座敷の前室的な接客空間になり,食事や家事などが裏の居住条件の悪い部屋で行われるようになった。明治維新以後も農家の封建的空間構成は変わらず,さらに強調された趣がある。新興の都市住宅も,その構成基盤は農村住宅に求められたため,居住性の良い表側は接客上の体面を考慮した座敷が占め,食事やだんらんの場としてはチャノマと呼ばれる台所に隣接した狭い部屋があてられた。第2次世界大戦以後は,住宅において,家族の個人的生活が重視され,寝室の個室化が進められる一方,公団住宅の2DK,3LDKに見られるように,家族のあつまり,台所,日常の客の応対,という機能が含まれた居間中心型の間取りが主流になった。
執筆者:鈴木 充
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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…そして事実,多くの伝統的住居において,これら三つの機能が住居平面(間取り)に表現されている。つまり家族にとっての居間でもある寝室,食事をつくりしばしばそこで食べる台所,そして住居の表側に位置し外来者を迎える接客空間が住居の基本的な構成要素になる。それ以上の空間分割による拡充はいずれも,これら3要素からの枝分かれとして解釈できる。…
…これに対し第2次世界大戦前の日本の住宅では,主人中心の接客を主体とする〈おもて〉と,家族の日常生活を主体とする〈うち〉とを大きく分け,おもてとなる座敷を重視するのが基本原理となっており,日常生活空間においては行為別に部屋が分化してはいなかった。戦後になって西欧からの影響もあり,食事と就寝の分離,家族の就寝室の独立と居間の確立が提唱され,伝統的な住宅の構成と西欧型あるいは近代化型の構成とが混合しているのが現代の日本住宅の姿といえる。住宅の構成を決める生活の分類は地域や時代によっても異なり,また,多面的な意味をもつ生活を一つの軸のみで分類することはむずかしく,いくつかの分類軸を複合させて住宅の構成を考える必要がある。…
…元来ギリシアやローマの住宅の上階に設けられた開放的な日光浴室〈ソラリウムsolarium〉に由来する。屋根裏部屋の意味で用いられることもあるが,一般には広間の脇に設けられた部屋の2階に当たる位置がソーラーであり,居間として用いられる。男性たちが下の広間で酒宴を続けているときに,女性たちだけがこの部屋に集まって会話を楽しむことが多かった。…
※「居間」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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