安土(あづち)桃山時代の茶人。千利休(せんのりきゅう)の高弟。屋号薩摩(さつま)屋、瓢庵(ひょうあん)と号す。苗字(みょうじ)・庵(あん)号から推測するに、堺(さかい)に多い前方後円墳上に住んだものか。利休に師事すること二十余年、のち利休と同じく豊臣(とよとみ)秀吉の茶頭(さどう)となるが、勘気をこうむり放逐され、浪々の身となる。その後、小田原城主北条(ほうじょう)氏のもとに身を寄せたが、これには北条氏の家臣板部岡(いたべおか)融成(号江雪斎(こうせつさい))の尽力に負うところが大きかったようである。1590年(天正18)、秀吉の小田原征伐の際、利休のとりなしで秀吉の小田原陣に参向したが、またまた直言して怒りを買い、耳鼻をそがれたうえ、殺された(『長闇堂記』)。『山上宗二記』(一本)の付箋(ふせん)に所見する「天正(てんしょう)十六年、宗二四十五歳」との記事に従えば、享年は47歳であったことになる。茶の湯に関して一家言をもち、浪々の間に著した『山上宗二記』は、先の江雪斎あてのものをはじめ数種があり、伝授相手によって内容に多少差があるが、茶の湯の歴史、各種名物道具の由緒、茶湯者の要件、茶人伝、あるいは武野紹鴎(たけのじょうおう)、利休についての記述を含み、当代の茶の湯に関する貴重な文献となっている。
[村井康彦]
(谷端昭夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
安土桃山時代の茶匠。千利休の高弟。堺の山上(やまのうえ)に住んでいたためこれを姓とした。屋号は薩摩屋。号は瓢庵。織田信長より李安忠の唐絵《瘦馬絵(やせうまのえ)》を賜与されているので,信長に参仕していたらしいことがわかる。豊臣秀吉から堺衆茶匠として召されたが,生来の狷介(けんかい)な性情により秀吉に逆らい,不興を買って浪人した。一時,前田利家を頼って加賀に召されたが,やがて浪人,高野山に登るなど流浪ののち,1588年(天正16)東国に下り小田原北条氏を頼った。名物記であり,また利休茶の湯の書として名高い《山上宗二記》は,翌89年に同書を北条氏の家臣板部岡江雪(いたべおかこうせつ)に与えていることから,この間に編述されたらしい。90年秀吉の小田原攻めに,利休のとりなしによるものか同地で伺候したようだが,そこでもまた秀吉の意に逆らって耳や鼻をそがれたあげく,斬刑に処せられている。
執筆者:筒井 紘一
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…《侘之文》では〈正直に慎しみ深く,おごらぬ様〉を〈侘〉としているが,《南方録(なんぼうろく)》にいうように,紹鷗のわびは,豪華絢爛(けんらん)たる名物揃いの茶を味わい尽くしたうえで到達する無一物の境地で,激しい対極の美を内包する意識であった。千利休と同時代の山上宗二(やまのうえのそうじ)の茶書によれば,〈一物も持たず,胸の覚悟一,作分一,手柄一,此三箇条〉をあわせ持つのが〈侘数寄〉すなわち〈侘茶人〉であるとしている。つまり,名物道具などすぐれた器物はいっさい持たぬかわりに茶人としてすぐれた境地と技術を持つことである。…
※「山上宗二」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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