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武野紹鴎 たけの じょうおう

美術人名辞典の解説

武野紹鴎

室町後期の茶人豪商幼名は吉野・松菊丸、通称は新五郎道号一閑茶の湯を藤田宗理・十四屋宗悟らから学ぶ。また三条西実隆に古典・和歌を学び、著名連歌師とも親交した。31才で剃髪紹鴎と号する。京都四条に茶室大黒庵を設け、村田珠光の提唱した侘び茶の道を更におしすすめて次代の千利休らに深い影響を及ぼした。弘治元年(1555)歿、53才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

武野紹鴎 たけの-じょうおう

1502-1555 戦国時代の茶人。
文亀(ぶんき)2年生まれ。父信久は堺の有力町衆。はじめ京都で三条西実隆に和歌,連歌を,のち茶の湯を村田珠光(じゅこう)の門人村田宗珠,十四屋(じゅうしや)宗伍らにまなぶ。珠光の侘茶(わびちゃ)をひろめ,門人に千利休,今井宗久,津田宗及らがいる。弘治(こうじ)元年閏(うるう)10月29日死去。54歳。名は仲材。通称は新五郎。号は一閑,大黒庵。
【格言など】正直に慎しみ深く,おごらぬさまを,侘びという(「石洲流秘事五箇条」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

武野紹鴎

没年:弘治1.閏10.29(1555.12.12)
生年:文亀2(1502)
室町時代の茶湯者,堺の豪商。父は信久,母は大和の豪族中坊氏の娘。大和国吉野郡に生まれる。名は仲材,通称新五郎,紹鴎は法号,一閑を道号とし,大黒庵と号した。村田珠光の提唱した侘び茶の湯を憧憬し,これに三条西実隆のもとで学んだ日本古典学を導入して,喫茶文化の国風化に成功した。父信久は11歳のとき応仁の乱に際会して親族を失い,大和国の豪族中坊氏の庇護を受ける。その後信久は同族の三好氏の勢力下にあった泉州堺に移り,武具製造に必要な皮革を商って財をなし,併せて都市国家堺の町人として軍事面で指導的な役割を担った。さらに紹鴎(新五郎)が24歳になったとき,京都四条室町上ル(現在金剛流宗家)に屋敷を構えさせ,財力を背景として紹鴎の栄達をはかり,29歳のとき従五位下因幡守の官位を得た。 紹鴎はこれに先立つ27歳のときから,当時の学問の権威三条西実隆に参伺してその指導を受けること10年,連歌文芸への傾斜を深めた。しかし『実隆公記』には本願寺について出陣したとの記述もあり,軍人としての活動も知られる。32歳で剃髪,脱俗を志向。孫の宗朝の自筆稿本『尾張雑集』に,大徳寺の古岳宗亘に参禅したとある。当時下京にあって村田宗珠,宗理など,珠光を継承する数寄者が市中の隠遁を追求していたが,この新しい文化に関心を深め,実隆に学んだ定家崇拝に基づく和学の教養を注入して,侘び茶の湯の思想的な背景を形成する。その内容は『南方録』『山上宗二記』『紹鴎侘の文』によって知ることができる。「紹鴎茄子」など60種もの名物を所蔵する富豪である一方で,無一物の境涯を理想とし,紹鴎の侘びは富裕と簡素の両極の間を楽しむことにあった。36歳で父と師実隆を失うと古岳の法嗣大林宗套を法援し,堺に南宗寺が建立された。これによって堺に大徳寺禅が興隆した。茶の湯の門人に千利休,津田宗及,山岡宗無,女婿今井宗久などがあり,彼らは信長・秀吉の政権下で,堺を代表する群像として大きな活躍を示した。墓は堺の臨江寺にある。<参考文献>戸田勝久『武野紹鴎研究』

(戸田勝久)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

武野紹鴎
たけのじょうおう

[生]文亀2(1502).堺
[没]弘治1(1555).閏10.29. 京都
室町時代末期の茶人。若狭国守護の武田氏の子孫。父の代に堺に移住し姓を武野と改めた。名は仲村,通称新五郎。京都に出て三条西実隆に歌道を学び,連歌にも長じた。従五位下因幡守に叙任せられたという。次いで十四屋宗悟 (じゅうしやそうご) ,宗陳に茶道を習い,さらに実隆から藤原定家著『詠歌大概』の序巻の講義を受けて,茶道の極意を得たといわれる。享禄5 (1532) 年仏門に入って紹鴎と号した。晩年は京都四条に茶室大黒庵を設け茶会を開催。村田珠光によって始められた佗茶 (わびちゃ) をもって茶道の理想とし,4畳半座敷から3畳,2畳半の小座敷を考案。また多くの名物を秘蔵していたことでも有名。門人に今井宗久,津田宗及,千利休らがいる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

武野紹鴎
たけのじょうおう
(1502―1555)

戦国時代の堺(さかい)の豪商、茶の湯名人。若狭(わかさ)守護武田氏の後裔(こうえい)で、父信久のとき堺に来住したと伝えるが、不詳。名は新五郎、仲材といい、居士(こじ)号を一閑(いっかん)と称す。舳松(へのまつ)町に住み皮革を家業とした。30歳までは連歌(れんが)師であったといい、その間1528年(大永8)3月以来、当代の代表的な文化人であった三条西実隆(さんじょうにしさねたか)に師事して古典を学び、『詠歌大概(えいがのたいがい)』(藤原定家(ていか)著、歌論書)の序の部分の講釈を受けていたとき、茶の湯について悟るところがあったという。京都では下京(しもぎょう)四条、夷堂(えびすどう)の隣に居を構え大黒庵と号した。連歌師心敬(しんけい)の説く枯淡の美を茶の湯に取り入れ、四畳半茶室を基本とする草庵茶の湯の発展に指導的な役割を果たしたが、名物道具を多数所持したことからもうかがわれるように、わび茶への過渡期に位置づけられる。女婿(じょせい)の今井宗久(そうきゅう)をはじめ、津田宗及(そうきゅう)、田中宗易(千利休(せんのりきゅう))らの師。和泉(いずみ)南宗寺の大林宗套(だいりんそうとう)に参禅し、これが茶人参禅の風を生む一方、茶禅一味(ちゃぜんいちみ)が説かれるようにもなった。天文(てんぶん)24年10月没。享年54。墓は南宗寺境内にある。[村井康彦]

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