山口大口費 (やまぐちのおおぐちのあたい)
飛鳥時代,7世紀半ばころ活躍した仏師。生没年不詳。法隆寺金堂の四天王のうち広目天像付属の光背裏面に〈山口大口費上而次木二人作也〉,多聞天の光背裏には〈薬師徳保上而鉄師古二人作也〉との刻銘があり,四天王像をこれらの4人が制作したと思われる。このうち山口大口費は《日本書紀》孝徳天皇白雉元年(650)条に詔を奉じて千仏像を刻したとある〈漢山口直大口(あやのやまぐちのあたいおおくち)〉と同一人物と思われ,渡来人阿知使主(あちのおみ)を祖と称した東漢(やまとのあや)氏である。四天王像の制作もこれに前後する時期と考えられる。この四天王像に似た例を中国に求めると,6世紀半ばころ,止利(とり)様の源流たる北魏末の様式よりすこし後の像となる。像自身も立体感をもった体軀,頭上の双髻,前後にひるがえる天衣など止利様にはない特色を備え,7世紀半ばころの作と見てさしつかえないようである。
→法隆寺
執筆者:佐藤 昭夫
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山口大口費
やまぐちのおおぐちあたい
飛鳥~白鳳時代に活躍した渡来人の子孫の仏師。『日本書紀』記述中の山口直大口 (やまぐちのあたいおおぐち) と同一人物と考えられる。白雉1 (650) 年詔により『千仏像』を造立,また法隆寺金堂に現存の『四天王像』のうち『広目天像』の光背に名を残し,当時著名な仏師であったことが知られる。
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世界大百科事典(旧版)内の山口大口費の言及
【飛鳥美術】より
…650年には中大兄皇子等が,7m四方にも及ぶ巨大な釈迦浄土図の繡帳を納めているが(《大安寺資財帳》),これは新たな浄土変相図の到来を告げるものである。《日本書紀》にはこの年漢山口直大口(あやのやまぐちのあたいおおくち)が詔によって千仏像を刻したとあり,また法隆寺金堂四天王像の広目天像の光背には〈山口大口費(あたい)〉の銘があり,同一人とみられるところから,四天王像もほぼこの頃の作と考えられている。四天王像は止利様式の頭大短軀の不調和を脱して,人体比率に近づき,体軀にわずかな屈曲を試み,天衣も側面に向けて湾曲し単調を避けるなど,正面観照を維持しながらも側面観照への指向がみられる。…
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