山田堰(読み)やまだぜき

日本歴史地名大系 「山田堰」の解説

山田堰
やまだぜき

物部ものべ川が山間部より香長かちよう平野に出る辺り、神母いげから南西岸小田島おだじまに向かって斜めに築かれた堰で、寛永一六年(一六三九)野中兼山によって着工された。県指定史跡。

この堰によって物部川の西岸に上井うわゆ中井なかゆ舟入ふないれ島井しまゆの四用水、東岸には父養寺井ぶようじゆが開かれた。開発当時の灌漑面積は、上井が一二七町歩、中井が四三五町歩、舟入川が一千一〇〇町歩で、築堰のために使用した松材は四万本、大石は一千一一〇坪といわれる(土佐山田町史)。西の仁淀によど川の八田はた(現吾川郡伊野町)と並び称される巨大な水取堰で、ここから引いた上井・中井の用水は山田野地やまだのじから現南国市遍路石へんろいしを経て中島なかじま方面へ、舟入川も南国市後免ごめんを経て高知市大津おおつ・高知市街地へ、またその支流は南国市の稲生いなぶや高知市の五台山ごだいさん南を通って浦戸うらど湾に注いでいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山田堰」の意味・わかりやすい解説

山田堰
やまだぜき

高知県東部,物部川下流部にある堰堤河口から 9.7km上流をせきとめて造った灌漑用水取水用の堰堤で,江戸時代に野中兼山が築造した。全長 327m,幅 11m,高さ 1.5m。右岸に上井,中井,舟入川の3水路,左岸に父養寺井水路を築造。高知平野を灌漑し,これにより開田が進んだ。工事に要した松の木杭は4万本と伝えられ,完成までに 36年の年月を要した。堅固さと設計の正確さで当時の土木工事としては非常にすぐれたものであった。

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事典 日本の地域遺産 「山田堰」の解説

山田堰

(福岡県朝倉市山田)
選奨土木遺産」指定の地域遺産。
1790(寛政2)年竣工。1980(昭和55)年大洪水のため復旧改修、空石積を練石積に変更暴れ川である筑後川に江戸時代に築造された取水堰。我が国唯一の傾斜堰床式石張堰

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

世界大百科事典(旧版)内の山田堰の言及

【筑後川】より

…他方,豊富な水量は約30の堰からの取水を可能にし,約5万5000haの水田を灌漑している。特に17世紀後半から18世紀前半にかけて難工事の末に完成した大石堰(灌漑面積2247ha),山田堰(698ha),恵利堰(床島用水。1927ha)は三大堰といわれ有名である。…

【土佐山田[町]】より

…町の中心は江戸前期,土佐藩執政野中兼山により開発され,在郷町として発展した山田野地町の地にあたり,物部川上流域や北方長岡郡からの物資の集散地であった。物部川左岸の神母ノ木(いげのき)から右岸小田島にかけて,兼山によって築造され下流域を灌漑した山田堰が今に残る。山地部は雨量が多く良材を産するが,平野部では温暖多雨の気候を生かして施設園芸が盛んで,野菜,タバコ,かんきつ類などを産し,米の二期作も行われている。…

【物部川】より

…第2次大戦後,中・上流に永瀬などのダムが建設され,電源開発も進められた。上流からの土砂が堆積した香長平野は,長岡・野市両台地面と扇状地性低地とからなり,台地面は近世,野中兼山が物部川に山田堰をつくり用水をひいて開田化した。国道195号線が谷口部の土佐山田町から川沿いに県境の四ッ足峠トンネルを経て,徳島県那賀川流域に通じる。…

※「山田堰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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